ネタ帳

2009年8月 9日 (日)

大人は矛盾している

大人は矛盾している。

そう聞くと、大人に対する批判に聞こえるだろうか
それとも、ある事実を述べているように聞こえるだろうか。

私がココで言いたいのは
矛盾しているものを抱え続ける事が出来るのが大人であるということ。
矛盾を抱えきれずに、簡単に決着をつけるのは子供なのだ。
もちろん矛盾していれば皆、大人と言うのは倒錯した結論である。

善悪や環境問題、それ以外にも色々とあるのだけれど
矛盾せざるを得ないのだ。

例えばCO2と地球温暖化。
これらを正しいと信じるのも愚であり
これらを認めないと言うのも愚なのだ。

CO2が増加していて地球温暖化が進んでいる
その可能性は高い。
しかし、あくまで可能性が高いと言うレベルの話。
可能性が高いと言う事は
「全然違ってました。てへ」
って事もあると言う事。
だから信じないし、無視して良いという訳ではない。
可能性が高い以上は対応もしなければならない。
すなわち
1、地球温暖化すると困った事になる。
2、地球は温暖化している。
3、温暖化の原因は主にCO2である。
この3つは現時点で可能性が高い以上無視できないし
対策を採らなくてはいけない。
しかし、同時に3つが間違っているのではないかと思って居なければいけない。
間違っていると思うものを、とりあえず信じて対応する。
この矛盾が大人である。

私流に言うと、これを
「ハイブリッド」と呼ぶ。
地球温暖化防止しなくてはということと
地球温暖化は嘘であるということの
ハイブリッドである。
それは全く中途半端であり、無意味だと言うかもしれない。

ハイブリッド車(電気とガソリン)も
精々ガソリン車の2倍位の燃費だというだけで
べつにエコでもなんでもない低燃費な車だというだけである。
CO2を出さない車じゃないと意味が無い。
そう言う人もいる。
それは正しい。
しかし現実から離れてしまっている。
今出来る事は、脱ガソリンを謳いながら
ガソリンが無ければ走らないハイブリッド車という選択しか現実味が無い。

そうやって抜本的な解決が出来ず
問題を先送りすることでしか
現実的には物事を運転していく事ができない。

あぁ考えながら打っているから最初の意図と外れてしまった。
本当は
地球温暖化は悪い事だ!とか
地球は温暖化している!とか
温暖化はCO2が原因だ!と断言している人は
本当に環境については悩んでいないというつもりだった。
同じく
地球温暖化の何が悪い!とか
地球は温暖化していない!とか
温暖化の原因はCO2ではない!という人もいい加減だと言うつもりだった。

どちらも自然(地球環境)の事を解ったつもりで言っている
解ったつもりでなければ「こうだ」とは言えないはずだ。
だから私にとっては、どっちも同じなんだと言いたかった。

「自然の事はよくわからない」

これが正解である。
自然を舐めんなよ!!
そう言いたかったのだけれども、
なんだかグダグダになってしまった。
あーあぁ

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2009年3月14日 (土)

YES WE CAN

YES WE CAN
今更ながらオバマさんである。
NHKで「オバマのことば」という特集を観た。
その中で色々と感じたメモ

アメリカは言葉(概念)で持っている言葉
選挙と言うのは
アメリカがアメリカであるための4年に1度の祭

演説は演説者だけで行うものではない。
聴衆がいて初めて演説なのである。
日本では、それだけ積極的に聞こうとする聴衆が育っているのだろうか。

変えるということを宣言しているが
ちゃぶ台をひっくり返すようなやり方ではなく
徐々に変えていくような変え方

アメリカの単純明快さ
悪か善か
黒か白か
敵か見方か
そういった事は、バカっぽく見える。
それであなどってはいけない
私はやはり
アメリカはすごい国だと思う。

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2009年3月 7日 (土)

日本人のアブナサ

いい人は迷惑だと以前にも書いた。
それについての考察

人は物事を考えるときに「言葉」を使っている。
言葉を使わないで考える事はないだろう。
実はこれがコミュニケーションツール以外での言葉の大きな存在の一つである。
すなわち我々であれば日本語で考えている。
この日本語こそが危険性を持っているのではないか。

日本語では普段は主語が省略される。
それは「無」が大好きだから「無我」という事なのか
単一民族だからなのか
村(コミュニティ)が常に小さかったからか
どれもそれなりに関係しているのだろうけど。
何せ主語がない。
英語であれば、主語のない文章はほとんどありえないだろう。

何が言いたいかというと
主語がない言葉は誰の発言なのかということ
もちろん語っている人の言葉である。
しかし、それがすぐに話者を超えて
「みんな」や
「世間」、「社会の総意」であるかのような語り口に変わっていく。
そしてすぐに、よく理解もせずに
「倫理」や「常識」という言葉で片付けて誰が判断したのか不明にする。

倫理的に許されない。
社会的常識だ。
これからの人類の義務である。

そんな言葉を耳にするたびに恐ろしくなる。
これらには主語がない。
これからの人類とか、地球市民も主語だというかもしれないので
言い換えよう。僕が言う主語とは文法上の話ではなく
責任者という事だ。
発言に対しては、その発言に対して責任者が必要である。
それは、メディアリテラシーの話とも重なるのだが

誰がどんな立場から 何のために どういった状況で 発言したのか。

これが解らなければ発言は亡霊になる。
責任者というのは個人でなくてはならない。
それが個人が常に隠れている。
そして亡霊のような発言だけがウロウロする。

個人の時代だといわれている
個人の自由が与えられた。
しかしそれには責任がセットであり
個人に責任が問われる時代になってしまった
それによって、かえって個人は責任を問われないように生きるようになった。
そのために世論だか社会常識だかを作って
そのとおりに生きていれば
例え問題が起こっても、責任を取らずに済むと考えるのではないか。

個の時代
益々と個は消えて、みんな似たような発言をするようになった。
それが国民総善人化であろう。
たまに入り込めなかったバグのような人は
さらに国民の団結を固めるために
人身御供として、仮想敵として
悪人とされて、その周りの人も含めて徹底的に
いじめられる
そして、それはハードさを増し、魔女裁判のように摘発即死刑
そんな方向へ進みだした。
お役人はその圧力を敏感に感じて
それらを止めるために
もしくは、それらをさらに加速するために
裁判員制度を導入したのではと思ってしまう。

どちらにせよ私には居場所がなくなってしまう。
なんとか「いいひと」の目を覚ましてやらなければと思うしかない。

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2009年2月 8日 (日)

だから愛なんだって

10代のころ「愛」とか「やる気」「情熱」
なんて言う人は大嫌いだった。
戦時中の教育かよ・・・
だったら愛国心と竹ヤリで戦闘機と戦えってんだ。
それが10年経って、現在
全ては「愛だ」って言い出した。
我ながら解らないものである。

なぜか?
それは
仕事でも
趣味でも
友人関係でも
恋愛関係でも
どのような人・物・事との関係でも
続けていくと必ずトラブルや問題が発生する。
トラブルまで行かなくても、より良くしていこうと思えば
悩まされるに違いない。
どうしたら良いか考える。
悩むことと考えることは同じことだ。

だから全てのことは
そんなに割り切れず
善とか悪とか言えず
真とも偽とも言えないから
延々と悩み続ける・考え続ける他にない。
悩むことは苦しいことである。
出来ればやめてしまいたい。
だから、どこかで解ったことにして打ち切りにしたり
そもそも関係を終わらせてしまったりする。

そんな苦しい関係性を維持しようとする
いつも嫌な思いをして
愚痴って
怒って
嫌って
泣いて
喚いて
憎んで
叫んで
時に目をそらして
忘れようとしてみたりもして
逃れようとしたりもする。
それでもやめない
もしくは
やめることができない

それは何ゆえか

愛としか呼べない。

愛するものを
嫌うことも
憎むことも
時に無視することさえも
愛の一面なのだ。

やめる決断をすることさえも
最高に濃い愛だと思うし
やめた後でさえ
いつか、思いを振り切れず戻ってくるかもしれない
そんな可能性がある限り
すなわち
死が人生を強制終了する瞬間まで
愛なんだと思う。

そんな愛に溢れた関係性の中で生まれた作品(物?人?事?)に私は感動する。

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2009年2月 4日 (水)

LOVE is ALL

どんなことも

どんなものも

喜びよりも

圧倒的に苦しみが多い

それと戦うのは

愛が全てだし

愛しか方法も思いつかない。

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2009年2月 3日 (火)

素材主義

負ける建築という言葉が流行ったので、どうしても安易に使いたくなってしまうのだけれど
ようは素材、要素が大事だということ。
これは金融資本主義みたいな実態もなく
一部の現代アートのような技術は無くてコンセプトだけみたいな
それらにコリゴリした我々が
その反動で逆側に振れているだけだと思う。
しかし我々は人間であり
肉体を持っていて
その肉体はヒトなのである。
であれば、素材を無視して色々と出来るわけが無い。
そう考えたとき、私達の世界観はどうしても繋がっているので
それがあらゆるジャンルに飛び火する。
WEBも然り。
情報さえあれば良いというのであれば
WEBは部数の制限もなく
空間の移動も不要であり
流通コストもかからない。
エコロジーでエコノミーである。

それでも我々は紙のメディアを捨てない。
むしろ益々紙メディア自信を愛している。

表層的なWEBと肉体を伴った紙メディア
これは全く違うものである。

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2009年2月 2日 (月)

ピンシュ!

ある偉い人がスピーチのときに
「ピンチはチャンス」といい間違えて
「ピンシュ」と言った。
偉い人だし、聴衆も全員ネクタイという場だったので
誰一人、クスりとも笑わなかった。

別に面白い言い間違いだと
笑いたいのではない。
「危機(ピンチ)」というのは
危険と機会(チャンス)だというのは
よく聞く。

それをもっと短く
強い一言で表す言葉は無い。
だから意外と「ピンシュ」というのは
新語としてアリなんじゃないかと
そう思ったのです。

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2009年1月21日 (水)

説得力

「リアリティより説得力」
これが最近思っている事である。

本日オバマ氏がアメリカ大統領に就任した。
彼の演説に注目が集まり
演説の上手さが評価されている。
演説というのは説得力である。

ここでもやはり「説得力」だ。
説得力はかっては政治家の演説ではなく
僧侶の説法であった。

説得力=神(仏)

だったのだが、それも今は
神は死んだという言葉があるように
神から科学へとシフトしてしまった。
この

説得力=科学

というのは、ただ神が科学に置き換わっただけである。
ニーチェがしたように
もしくは科学の不完全性があるように
最終的には人間がすることであるため

説得力≠真実

であることは変わらない。
(リアリティが本物ではないのも同じ)
結局、我々は真実(本物)を手に入れようと必死なのだ。

しかもそれが手に入ってないのに
暫定的に、それ(神⇒科学、演説)によって
人々に真実(本物、正義、安全、環境に良い、善、etc)だと信じ込ませている。

信じ込ませる。
それが説得力。

「信じるものは救われる」
どう受け取る?

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2009年1月14日 (水)

LOHAS(ロハス)とは何かを考える

我々は地球に生きている。
基本的に地球は太陽光というエネルギーが入ってきて、熱エネルギーが出て行くだけの機関である。
物質的には出入りがほとんど無く、地球上で循環しているだけである。
だから私達の身体を構成している素材も、物質循環の一部である。
だから人間は環境の一部である。
例えば水に着目すると、水は地球から出たり入ったりしないで地球上で循環している。
循環のある一瞬に我々の体内にあるのだ。
そういった繋がりを考えれば環境と健康は直結したシステムである。
ヘルス(健康)とサスティナブル(環境)の組み合わせは、とても自然な組み合わせだ。
一般的に何かを選ぶときに環境負荷がより低いものを選択するとエコだと言っている。
ペットボトルを選ぶ人は、その軽さ・薄さ・丈夫さによって破損のロスや輸送時の環境負荷の低さを主張してエコだという。
ガラス瓶を選ぶ人は何度も使えることや、ペットと違い完全な再生が可能であるという点を主張してエコだという。
アルミ缶を選ぶ人は軽さ、薄さ、丈夫さに加えてリサイクルの容易さを主張してエコだという。
どれを選んでもエコになるのだ。
生産、流通、廃棄の3つで起こる問題は全く次元の違う話なのに
環境問題という同じ土俵に乗せてしまうから、まともな判断ができなくなっているのではないか。
結局は利益に関係している人間からの偏ったデータを参考に自分で決めるしかない。
膨大な論やデータを普通の人が集めて比較するなんて技術的にも、時間的にも困難である。
だからなんとなく良さそうだったり、みんながしているとか、昔からしているように自分も行動する。
なんとなく良さそうだという脱理性的判断で物事を決めようという姿勢(思想?)をロハスの思想と呼ぶと、ロハスは考えるではなく感じる事ではないか。
思い起こしてみるとロハスピープルは感性を大事にして、身体や自然の声に耳を澄ませていそうなイメージがある(私だけか?)
考えるより感じるという考え(「感じ」とした方が良いのか)は、考え抜いた末に感じるのと、考えないで感じる事がごちゃ混ぜにされるあたりサブプライムや食品などの色々な偽装の様だ。
ロハスと偽装というのが根本的に相性のいい理由はこのあたりか。

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2009年1月 8日 (木)

書を捨てよ。街へ出よう。

ある先生にお聞きしたことがある。
「間違えないためにはどうしたらいいのか」
そのこたえは
「一人にならない。人と話をする。」
と言う事であった。
私自身も議論や対話の中に真実?力?があると思っている。
人はよく
議論しても決着しない
中途半端な折衷案になる
その結果が芳しくない
解りあえない
等など、議論や対話は無力(無意味)だと言う
それは結果だけを見ているからである。

重要なのは結果ではない。
むしろ変化の方だ。
例えば
「負けるが勝ち」の、ひとつの解釈に
議論で負けた人は
自分の知的なレベルアップに繋がった
議論で買った人は
優越感しか残らない
だから議論に負けた人の方が
得るものが多く、勝ちだ。
というものがある。

議論の途中で気付く事は多い。
それを得ることで自分自身が変化する。
まぁ成長と言ってもいいし
修正されると言ってもいい
議論自体の結果や結論は
あまり重要ではない。
議論にしか注目できない人は
枠に捕らえられた
視野の狭い人である。

そして自分という枠にはまっていることに気付いていない。
自分を超えるには、他者が必要なのだ。
他者との理解(もちろん完全な理解は無いとはいえ)には対話や議論しかない。
本を読んでも、その解釈は自分の中でしか起こらない。
一人で本を読んでいても無理なのだ。
引きこもりは、どれほど深く悩んでも
解決や脱出へとは至らない。
もしくは脱出するには対話しかないと
結局、「引きこもるのをやめる」
という結論を得ている。
書を捨てよ。街へ出よう。

しかし「書を捨てよ。街へ出よう。」
という言葉が、そういった意味で言われたかどうかは
議論の余地がありそうである。

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2009年1月 5日 (月)

年末年始はテレビっ子

普段あまりテレビを見ないのだけれども、年末年始はテレビ漬けになる。
そんな訳で、色々と見ながらメモった、既に出展不明&思いついたことを

「嘘の色は何色か」
玉虫色の答えなんて言うのがあったけれど、
最近はエコを意識して、色々なものが緑色で表示されている。
私たちの求めている緑は、印刷や、ペンキや、ディスプレイの
こんな色だっただろうか。
緑から緑を引いても緑である。
本物の緑をあなどるな。

「リアリティより説得力」
by本谷由紀子

「マネーへの投資」
by姜 尚中

「自分で考えて表現する」
byフィンランドの教育現場

それにしても経済番組などでの討論を見ていて
民主党、社民党、共産党など野党は醜い。
きっと与党の批判しか言わないからだろう。
「罪を憎んで人を憎まず」
という言葉を知らないのだろう。
彼らは与党の批判をやめて、
もっと冷静に政策自体を標的とし
変えるべき点と評価できる点を
きちんと区別し、指摘した上で
政策の問題点を敵とするべきである。
敵を間違えている。
だから野党は尊敬できない。
逆に言えば
そこを変えていけば尊敬できると言う事である。
「尊敬できない」という言葉は
批判でも批評でもなく
エールである。
が、大概の人はそう受け取ってくれない。

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2009年1月 4日 (日)

テレビっ子の2

テレビ見ながらのメモ

レンゾ・ピアノ曰く
伊勢神宮の20年建て替えシステムは素晴らしい。
宮大工は、それによって
20~40代は見よう見まねの時期
40~60代は実践の時期
60~80代は教える時期
建築は人類で最も古い職のひとつ。
熱や雨から人を守る、自然との関係なのだ。

社会企業家という言葉を作った
ビル・ドレイトン(アショカ)曰く
ビジネス(その人の仕事)と結婚できるか。
「健やかなときも、病める時も」です。
結婚できなければ
何事もなしえない。

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2008年12月22日 (月)

ふたつの記事から

以下のふたつのブログを見て思った事は、どんな状況であっても
トップ・経営者・リーダーには良い状況だって事です。
部下に恵まれないと嘆くのは上に立つ人間の発言ではない。
これは上に立つ人間を責める言葉ではない。
その人も上に立つべき人間ではないのに立たされている辛い立場だと理解する。
しかし、誰しもが最初から人の上に立てる人間ではないはずだ。
上に立つべき人間へのエールであり、これは自分へのエールでもある。

「おせっかいな人」の孤独

優秀なナースがいるとシステムがなかなか改善されないという話

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2008年11月27日 (木)

ハテシナイモノ

果てしなく遠く。
それはどこかと問われても、答えはない。
限りないものなんてあるのだろうか。

諸行無常

太陽エネルギーは永遠だとか言うけれど、数十億年というスパンでは消滅する。
人の欲望は限りがないと言うけれど、食欲も人が一生で食べられる量には限りがあり、性欲もしごとをしなくて良くて、女にどれほど不自由しなくても毎日何十回も出来るわけがない。睡眠欲も1日24時間以上眠れる人は居ない。全て肉体が耐え切れない。
今のところ
永遠に続いた平和も無ければ
永遠に続いた国家も無く
永遠に続いた経済発展もない
永遠に増え続けようとするものはいっぱいある。
それは先ほどの欲望だったり経済・マーケットだったり
生物学的に言えば菌や癌細胞、精子細胞も無限に増えようとするらしい。
しかし増え続けようとすることで自分の環境を破壊してしまう。
永遠や無限というものは実は存在しないのだということがよくわかる。
それでも望むという愚かさなのか、それとも克服しようとする勇気と呼んであげたら良いのか
まぁどっちでも良いのだけれども
それだけは人類の歴史がある限りという条件付で
永遠である。

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2008年9月24日 (水)

キャワイイ

勝手に造った造語である。
中身は無いし、私としてはクリエイティブと呼びたくないのだけれども、なんとなく「カワイイ」ということで世間やら女性やら、女性にリードされているメディアやらが評価していたり、売れていたりするものを、それはキャラクター的であるということも含めて「キャラ」+「カワイイ」⇒「キャワイイ」である。
日本人の好きな無思想の延長にあり、単に世の中では賢くない人とされる人々の思考停止状態が合致したときにキャワイイは大きな力を持つ。
まぁ悪意的に使う事が多いけれども、悪意のあるときに使う言葉ではないので、念のため。

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2008年9月11日 (木)

皆既日食

来年2009年7月22日に皆既日食が日本で観測できるそうです。
国立天文台のHPを見て大変驚きました。
今回の皆既日食はとても楽しみです(といっても奄美大島などへ出かけるわけではないので、部分日食が見られるだけなのですが)。しかし驚いたのは自分の住んでいる金沢、北陸でも2035年9月2日には皆既日食が見られるということ。
なんて先の話だと思われるかもしれませんが

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2008年8月18日 (月)

本物

本物と普通とでも言おうか。

「闘うデザイナー」だとか「闘う料理人」だとか「闘う○○」という風に言う人が居るが、私はこれに違和感を覚える。闘っていない人なんて居るんですか?

公務員は全員闘っていない。主婦もなにとも闘っていない、ホームレスも闘っていない。そういう事なのか。

いや僕の言う「闘う」は違うんですよ!と言われても闘い方だって、闘う対象だって人によって違う。だから「闘う」と言う言葉が人と違うなんていうのは、当たり前である。それを限定するなら「施主と闘う建築家」とか限定するべきだ。

生きている人間は全員闘っている。自分と、老いと、社会と、、、、、だから「闘う」なんて言葉を付ける必要は無い。闘うということは本当はもっと静かで、辛く、苦しい葛藤のようなものだ。それを言葉にする=客観化して、さらに他社に共有してもらおうと名乗るなんてありえない。「闘っている自分の理想像」に酔っているだけか、闘っていない自分を恥じて、それを隠蔽するのに必死なのかと勘ぐってしまう。

昨日、ある女性の画家さんとお話をした。よく金沢城でスケッチをしているというので、私は安易にも「それじゃ金沢城の植物展とかそお言うテーマで個展をしたらいいんじゃないですか」と言ってしまった。

それに対する彼女の答えは「NO」。

そうすれば「地元の事を愛しているいい人」だとか「郷土ネタとしてメディアも扱いやすい」だとかメリットは山ほどある。しかし彼女は自分の絵を見てほしいと言う。絵で勝負するのだという。

私は感動してしまった。

最近は「地産地消」だとか「郷土野菜(石川では加賀野菜)」、他にも仲間になるのは「ロハス」「エコ」「食育」など。そういった言葉を武器にして闘うやからが多い。

まるで流行に乗っかり、実力よりもそういった二次的なものが主役なような振る舞い。

画家は絵で勝負する。料理人は味で勝負する。

そういった本来の姿が失われているように思う。もちろんそんなつもりは無くて「絵」プラス○○、「味」プラス○○でしていたのが段々ウエイトの置き場所が歪んでしまい、本末転倒する。だから彼らは自信を持って、疑いも無く自分を本物であると考えている。

だから全員が本物かと言えば、そうではないのは自明であろう。

画家の実力は郷土愛の深さと別に観なくてはいけない。

画家は郷土を描くから取材されるのではなく、絵の良さを取材されるべきである。

「地元野菜を使った○○」とか「本物の○○」とか「闘う○○」とかは、本質的な実力や作ったものの素晴らしさを消し飛ばすくらいに人間としての卑しさが滲み出ている。

ビジネスだから仕方が無い?

仕方ないという言葉は妥協したということであろう。それをもって「闘う○○」と言う無かれ。

ビジネスをするのは良い。儲ける商いも良い。しかし「何が悪い」と堂々と言うほど偉いものでもない。

尊敬できる大人が少ないものだ。

本物/ホンモノとは

偽物/偽者とは

普通/それ以外とは

あなたはどうやって生きていくのか。

私はホンモノだろうか。

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2008年5月30日 (金)

無と有をひっくりかえして考えるというのがあるが、無と有をイコールで繋いでみている。

どちらが上位の概念と言う事は無いと思う。

無価値の価値

無意味の意味

無用の用

無為の為

無知の知

無思想という思想

無宗教という宗教

無計画という計画

無限の限界

などなど色々と考えていきたい。

無印さえも印(ブランド)である。

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2008年5月14日 (水)

自然とアート

反対(対立)の存在

例えばアートと自然。エコロジーとエコノミー。最近はそれらを融合させたものが増えているように思う。そんなの全部嘘っぱちだと息巻いても、どうにもならない。

人が自然を愛する理由がなんとなく解ってきた。それは自然であるからである。「自ずから然るべく」それは誰にも意図されず、意味も無いということではないのか。

たとえ「人類の至宝」と呼ばれても、世界遺産でも、国宝であっても誰かが意図して作ったものである。そこに作者の「狙い」が見えるところがウンザリする。

自然は誰の意図も完全に受け容れる事は無い。

自然の美しさをアートに取り込もうとするのは、人工のものを語源とするアートでは完全な矛盾としか思えない。そこまでして憧れる存在。

経済の活性化、産業の活性化、街のにぎわい創出、商業振興・・・これらの頭に「アートによる」という言葉が冠されることが増えてきた。二重三重の意味でウンザリである。

アートはそれらと戦うものだったはず。アーティストもビジネスマンになってしまった。活性酸素が体によくないように「活性化」の負の側面を誰も見ようともしない。

そんなに活き活きと生きなくてはならないのだろうか。

活き活きと生きたい症候群。健康でいたいと願う病。それらから救ってくれるはずのアートという薬は、今日ではそれらを悪化させる猛毒へと変容してしまった。

全部を飲み込もうとする資本主義。もうひとつ似ているのがダーウィニズム。この二つは何でも飲み込むブラックホールか。破壊するほどの力は私には無い。

完全にそこから降りるなんて不可能。

それでも半分だけでも降りられないか、苦悩する日々は続く。

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2008年5月 4日 (日)

memo

ネタとしてのメモです。断片的なワードから、何かを感じる人は感じてください。

今、問題なのはenvironment (環境)ではなくeducation(教育)。

本当に必要なのはrecycle(リサイクル)よりもre: education(再教育)。

市民運動やボランティアは立派なことではない。誰もあなたの働きに「価値」を見出さない自己満足なのだという見方をしてみよ。

団塊の世代に捧ぐ「もっとストイックに人生のフィナーレを演出せよ。このままでは賑やかで楽しそうに見えて実は中身の薄い、、、それ以上は言うまい

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