哲学

2008年8月18日 (月)

本物

本物と普通とでも言おうか。

「闘うデザイナー」だとか「闘う料理人」だとか「闘う○○」という風に言う人が居るが、私はこれに違和感を覚える。闘っていない人なんて居るんですか?

公務員は全員闘っていない。主婦もなにとも闘っていない、ホームレスも闘っていない。そういう事なのか。

いや僕の言う「闘う」は違うんですよ!と言われても闘い方だって、闘う対象だって人によって違う。だから「闘う」と言う言葉が人と違うなんていうのは、当たり前である。それを限定するなら「施主と闘う建築家」とか限定するべきだ。

生きている人間は全員闘っている。自分と、老いと、社会と、、、、、だから「闘う」なんて言葉を付ける必要は無い。闘うということは本当はもっと静かで、辛く、苦しい葛藤のようなものだ。それを言葉にする=客観化して、さらに他社に共有してもらおうと名乗るなんてありえない。「闘っている自分の理想像」に酔っているだけか、闘っていない自分を恥じて、それを隠蔽するのに必死なのかと勘ぐってしまう。

昨日、ある女性の画家さんとお話をした。よく金沢城でスケッチをしているというので、私は安易にも「それじゃ金沢城の植物展とかそお言うテーマで個展をしたらいいんじゃないですか」と言ってしまった。

それに対する彼女の答えは「NO」。

そうすれば「地元の事を愛しているいい人」だとか「郷土ネタとしてメディアも扱いやすい」だとかメリットは山ほどある。しかし彼女は自分の絵を見てほしいと言う。絵で勝負するのだという。

私は感動してしまった。

最近は「地産地消」だとか「郷土野菜(石川では加賀野菜)」、他にも仲間になるのは「ロハス」「エコ」「食育」など。そういった言葉を武器にして闘うやからが多い。

まるで流行に乗っかり、実力よりもそういった二次的なものが主役なような振る舞い。

画家は絵で勝負する。料理人は味で勝負する。

そういった本来の姿が失われているように思う。もちろんそんなつもりは無くて「絵」プラス○○、「味」プラス○○でしていたのが段々ウエイトの置き場所が歪んでしまい、本末転倒する。だから彼らは自信を持って、疑いも無く自分を本物であると考えている。

だから全員が本物かと言えば、そうではないのは自明であろう。

画家の実力は郷土愛の深さと別に観なくてはいけない。

画家は郷土を描くから取材されるのではなく、絵の良さを取材されるべきである。

「地元野菜を使った○○」とか「本物の○○」とか「闘う○○」とかは、本質的な実力や作ったものの素晴らしさを消し飛ばすくらいに人間としての卑しさが滲み出ている。

ビジネスだから仕方が無い?

仕方ないという言葉は妥協したということであろう。それをもって「闘う○○」と言う無かれ。

ビジネスをするのは良い。儲ける商いも良い。しかし「何が悪い」と堂々と言うほど偉いものでもない。

尊敬できる大人が少ないものだ。

本物/ホンモノとは

偽物/偽者とは

普通/それ以外とは

あなたはどうやって生きていくのか。

私はホンモノだろうか。

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2008年6月 5日 (木)

二十世紀最大のアート

もうすぐ21世紀も1割が終わります。

20世紀から何かが変わったのでしょうか。

個人事で申し訳ないのですが私のテーマでもある「環境」に興味が集まり、少しずつではありますが知識が得られてきています。

アートとは元々、人工物という意味。実は政治も経済も戦争もアートなのである。そのアートである戦争を解決するのもアートだ。その中で最大のものは「環境破壊」もしくは「環境問題」だと思われる。

人類は平和を願いながらも、平和を勝ち得る事はできなかった。まぁ、勝ち得るという発想自体が勝ち負けだから戦い=戦争の素なのかもしれないが。

しかし世界中が共通の問題として環境問題に取り組もうとしている。戦争は最大級の環境破壊である。となれば、もはや戦争と言う贅沢はしたくても出来ない世界になるかもしれない。

もっと環境を破壊して、人類が立ち行かないほどの深刻な問題が目前にまで迫った時、その時の地球は戦争がなくなるのではないか、しかも完全に環境が回復するのには途方もない時間がかかる。ある意味サスティナブルな問題だ。

乗り越えられることもない平和への重しになれば環境問題は最大というだけでなく、素晴らしい人類の創造物=アートになるかもしれない。

それとも貴重となった資源を奪い合って殺しあうのだろうか・・・・それもアートだから良しとすれば良いのか

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2008年6月 4日 (水)

絶対待つ

鷲田清一「待つということ」を読む。

そして平行して読んでいたフォアビギナーズ「西田幾多郎」も読み終わる。

どちらも哲学の本なので時間がかかった。しかしどちらも面白かった。

ある事柄があって、それをぐるっと内包する概念がある。だけれども、それだって何かに内包されている。そしてさらにそれさえも内包する別の何かがある。しかもそれは前の段階で内包済みの小さいカテゴリだったりしてパラドックスのようなことになる。

それを延々と追いかけているという感じだ。待つということでは全てを「待つ」に結びつけながら、待っていると言う時は何かを待っては居ないといい、しかし待つというような待つのカテゴリーがマーブルのように広がる。

西田にしても「無」について、「無」と言っても「無」があるわけだから、それさえもない「絶対無」を仮定して話を進める。それはあくまで仮定の話で「絶対無」なんてありえるのかは、現実としては難しい。では2冊を平行して読んだ感想として「絶対待機」というものも考えてみたらどうなるのだろうか。

それは待つこと自身が目的かつ方法となるということなのだろうか。だとすると絶対待機というのは宗教のようなものか(と言ったら宗教家は怒るのだろうか)

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2008年5月28日 (水)

無計画という計画

昨日の「無意味の意味」のシリーズ(?)です。

無計画というのは、完全に未来に対し何も考えていないというのとは違う。

もちろん計画がなされているのでもない。しかし対極に位置していると考えられる「完璧な計画」というものはありえるのだろうか。それは予知であり、予定調和ではないか。そんなことありえるのか、仮にあったとしても面白いのだろうか。

色々なことが起こることを知っていて(無意識にでもいい)どれにでも対応できるというのは計画というのだろうか。

自分の世界観が大きく、知識をつけて、視野が広くあれば、どれも想定の範囲内に収まる。しかし、それは計画とは違うものである。世界観や知識、視野をまとめて人間の器と呼ぶのであれば、器を大きくすることが全てへの備えではないか。

緻密に計算された計画ほど、一点の狂いで崩壊しがちである。

それに対して無計画の計画はありとあらゆるハプニングを内包する分強い。

武道の達人の構えは隙だらけ、それが返って隙が無い。というのと似ている気がする。

さぁ次の旅行は向け行くの計画で出かけますか?それとも計画して出かけますか?どちらが得るものが大きいのでしょうか

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2008年5月27日 (火)

STOP自殺

私と同じ金沢出身の川田亜子さんが亡くなられた。ニュースでご存知の通り自殺である。

同郷の美人であり、密かに応援していたのだが残念でならない。

人はなぜ自殺するのだろうか。当然その理由は千差万別で十把一絡に「良くない」とか「やめよう」と言ったところで無駄であろう。

キエルケゴールは死に至る病を絶望と言った。川田さんも自殺前に自身のブログで「母に生きている意味を聞いてしまった」と書いている。もちろんそれが理由かどうかなど死者に聞くことはできないので、真実は闇なのだが、「絶望」「生きる意味」というのはキーになると考えられる。

どうせ慌てずとも、どれほど拒否しようとも死は訪れる。ではなぜ自ら死を選ぶのか。それは人生の残された時間に何の意味も見出せず、もしくはマイナスだけ(苦しみだけなど)しか見出せず、明るいものが無いと考えるからであろう。

辛いだけの時間であれば、退屈なビデオを早送りするように飛ばしてしまえばいい。それが自殺だと私は考える。

「絶望」=「残りの人生に意味が無い」と考えることは「人生に意味がある」の反作用であり、更に言えば「目標を持て」とか「人生は美しい」とかいうものの持つ反作用では無いか。哲学ちっくになっていく私が、いつの日か自殺するのではないかと心配してくれる友人が居る。しかし、それは無い。

重複になるが自殺する人は、残りの人生に意味を見出せないと言うことだ。

私は既に自分の人生に意味を見出していないし、そおいう意味では、ずっと昔に絶望しているし、一度死んだ事がある(これについての説明は長くなるのでまたいつか)。

とっくに自分の無意味さに気付き、受け容れてしまった。

しかし死には至っていない。それは「無意味の意味」を知っている、いや知っていると言うのは言いすぎで、無意味の意味というものもあるはずだと、妄信しているからである。

現代人は夢をもち、目標を高く設定して、激しく競い合っている。無駄や非効率、空虚な人生を嫌い、中身の無い人間だと言われることに嫌悪感を感じている。

そりゃぁ、死ぬしかない。止められない。むしろ死なないで生きている馬鹿な奴の鈍感さに腹が立ちさえする。

しかし無意味にも意味があるのであれば、真の無意味は消え去り、絶望もなくなり、残りの無駄な人生を楽しむ事だって出来るはずだ。

無意味の意味を知るときに絶望は消え、人間は救われるのではないかと思っている。

くだらなくて、恥ずべきで、無価値だと

決め付けるのはあなただ

しかし、それは社会の価値観に大きく影響を受けている。実はあなたでありながら、あなたではない。自殺しようとする人は、もっと勉強するべきだ。

私ならこう言う

「死に至る病は無知である。」

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2008年5月26日 (月)

マンダレイ

ラース・フォン・トリアー監督のマンダレイです。

ドッグヴィルの続編で3部作のはずが、3つ目のワシントンがいつになるかわからないというやつです。

テーマがアメリカ・人種(黒人)問題・奴隷と言ったところなので、なかなか日本人には理解しにくい話です。

しかし奴隷として縛られていたのが、開放されて、自由=自分で決めなくてはいけない=失敗も自分の責任。そんな世界の苦しさにたいして劇中のキーアイテム「ママの法律」は皆に役割を与えることでうまくやっていく方法だ。

今日は西田幾多郎記念哲学館の市民講座を聞いてきたのだが、そこで語られていた、自己同一性の問題、世界を認識する自己がシナリオを書き、その自己が自分の社会的立ち位置を作り、演じるという事と自然とリンクしてきた。

「生きるのに必要なもの」や「自由」というのは難しい。劇中の黒人のように、それについては深く考えないほうが安全で、楽しい生活が送れる。あなたはどうか

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2008年5月25日 (日)

活性化に絶望した

東京に住んでいた。それから金沢に移り住んでいる。

最近思うことがある。活性化こそが死への道ではないかと。

解りやすいのは活性酸素が細胞を殺すということ。これを街に置き換えると、街の活性化が進む、細胞である町の店や住人は死ぬ。

解りやすい例は我が町に大型ショッピングセンター(大企業・大資本etc)がやってきた。それを中心に発展するかもしれないが、小さいお店などは消え、結局日本中同じ風景となる。そして、そのショッピングセンターなりが去ってしまうと、街は死に絶える。

活性酸素の話だけではなく、生物界では同じような話は多い。

ある動物が増えすぎれば、かなりその後劇的に減る。もしくは絶滅する。

ある植物が生い茂ると、ある時に何らかの原因でその植物が死ぬと、まるで全部の植物が死んだような風景が出来る(日本は自然が強いので実感しにくいが)。生物多様性を大事にしようとか、エコロジーをと考えるのであれば街の生物多様性や、街のエコロジーに関しては考えないのか?北極熊のすむところが無くなるとヒステリックに叫ぶ前に、商店街の金物屋さんが無くなると叫ぶべきではないのか。

金沢でも町の活性化の為の活動がいくつもあり、また一つ始まったという記事を発見する。活性化が進めば死も増える。死人は声を出さないので活性化の良い面ばかりを見ている。この記事から死者の声、死者の警告を読み取って欲しい。

経済の話(環境問題)・ニュースや活性化はまるで戦争中の本営発表のようだ。

疑問を持ったら非国民であるという変わりに「KY」という言葉までセットで開発したファシズム。

死者の声を聞かせない、もしくは聞かせないために殺すという「死人に口なし」の偏った情報=フィクション。

街の活性化の代表者たちに群がる各種メディア(今回の情報リソースにリンクした2社様申し訳ありません、あなたがただけではありませんのでお許し下さい)という流行=ファッション。

そうであるエコの時に書いたようにこれも3Fなのだ。

大儀という旗を降ろしなさい。

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2008年5月24日 (土)

ブラックブラック

ドイツ戦争(テロ)シリーズという訳でもないのですがレンタルビデオ店で同じコーナーに合ったので取ったのでしょう、「ミュンヘン」「アドルフの画集」と今日の「ブラックブラック」です。

中ではブラックブラックが一番良かったように思います。

戦争中の善と悪の反転。それは複数の意味をもち平和時の善を戦争時になそうとすれば、それは悪であり、平和時の悪は戦争時に善になったりする。それが戦争前後でどう変化するのか。悪だったものは心は悪のままでも、表面的な善になり英雄になり、善を貫こうとしたものは返って悪に処されたり・・・

善や悪がどれほど薄っぺらく、人々のいう善悪こそが悪といいたくなるような心押しつぶされる展開。しかもヒロインはどうなってしまうのかという緊張感が続くのですが・・・

このまま終わらせてしまうと「人間=悪」というような感じを受けるとか、重苦しくなってしまうと感じたのでしょう。悪は逃げ延びるまえに殺され、そこで不必要なカタルシスを覚えさせ、ヒロインもなんとなく平和で幸福で、善意の人としてエンディングを迎えます。人間の存在に対して、世界は多くの人を苦しめる加害者集団であり被害者集団。それは戦争前後に強く発揮される。そんな、しっかりと受け止め欲しい事実が、カタルシスとハッピーエンドでボケてしまう。

いうなれば素晴らしい名画を描いて、最後の仕上げに上から白のペンキで塗りつぶしたようなもったいない作品です。ヒロインは誤解されたまま死んで欲しかった。

きっとその方がリアルだ

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2008年5月18日 (日)

四高教授としての西田幾多郎

とても解りやすい講義だった。

浅見先生はわかりやすく説明しようとするあまり、ちょっとくどいと感じる時があるのだが、今回のは解りやすかった。

というのも人となり、生活についてが多く、哲学の内容領域は今回はあまり触れられていないので当然と言えば当然か。

しかし、本当に西田は面白い人物だったのだろうと感じる。

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2008年4月 8日 (火)

こんなに早くに結果が得られるとは

先日の友人との口論で、ぐったりしていた私へ神の恵みかと思うほどの事件が起こった。

というのは大好きな「爆笑問題のニッポンの教養」現代の「知の巨人」松岡正剛の回を見逃していて、やっと再放送を見れたのである(本当は昨日見られるはずが突然の国会中継で無くなり、二度もお預けを食らったのである)。

最高に爽快であった。松岡氏の一言一句が、先日自分の語った内容をトレースしているのである。もちろんその裏にある思慮や考察の深さ・広さの差や支える知識の強さは桁外れであり、放送時間の関係から色々な内容が抜け落ちていたという事は理解している。

それでも少なくとも発せられた言語とロジックが、ここまで他人と一致したのは久しぶりであり感激と共に、恐ろしいほど驚いた。

その中でも印象に残っているのは「日本は元々デュアルな国」というフレーズである。

矛盾する二つを、同時進行的に持ってきた文化。

文字を作らず輸入した国。

漢字に音読みではなく、訓読み(日本読み)を付けて、わざわざ二つの読み方を作った。

「カナ」と「かな」を二つ作った。

全て不必要であり、非効率的であり、矛盾する。これを論理の破綻と呼んで攻撃するのが現代人である。まぁ、そのあたりは一人一人が考えていただければよい。

本棚に未読の「中庸」という本がある。これの読書前感想文という意味不明のものを書くとすると(実際にはありえない読書前感想文という言葉が作れるあたり、言語は面白い)、

AとBと完全に矛盾する事があったばあい、理論でいうと「どちらかを選択する」ことになるらしい(私の周りの人間はそういっている)が、私はその矛盾する両方をどちらも真として、もしくはどちらも誤として持ち続け、その間でバランスを取る。それを中庸と考えている。さて中庸と言う本には何が書かれているのか。全然違うことが書いてあると面白いのだ。

他人は私の浅はかさを笑うだろうが、こうやって自分自身で作った理論が、誰かと一致したときの感動(今回の松岡氏のように)、反対に全く違ったばあいのズレは楽しいのである。

結局は自分がオリジナルだと思っている事は、過去の誰かのトレースであるが、私がその事実を知らない間は私の環世界ではオリジナル理論なのである。

無知は罪であり、知らない事は恥ずかしい。しかし、知るために無知を晒す事は必要なのではないか?知らない事には触れなければ良いというのは、、、そんなもんなのか。間違っても良いから挑戦しようと思う私は若いのか、只の甘えか。

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2008年4月 7日 (月)

幸福とは何か

ゴミ出しのマナーが悪いため自治体がゴミを開けて注意をしているらしい。

その関連の調査でゴミの分別きちんと出来ますか?というのをやっていた。かなり自信のある人も間違えていた。エコのために何ができるかわからないと言う人は、まずゴミ分別のプロフェッショナルになってもらえば良いのではないか。

食の安全が騒がれている。自然・無化学であれば安全だという単純思考の問題はあるが、今日はその事は置いておいて、大人気の「有機野菜」について。それだけ有機だと言うが有機野菜の正しい定義を知っているのだろうか?減農薬との違いは?

次の偽装は有機野菜偽装だろう。誰が有機野菜と、化学薬品を使った野菜を食べ別けできるのだろう?すぐに健康を害する毒が入っているわけでもない。ロハスは偽装がしやすい悪の巣窟なのだ。ロハスを語るものは全て疑った方が良い。

有機野菜を作ると言う事が、どれほど大変なことか解らないから「有機野菜が良い」と言えてしまうのだろう。有機野菜の隙間から芋虫が出てきても、それを喜べるのだろうか?うっかり虫の卵を食べてしまい新しい病気(?)になっても許せるのか。許してもらえないならば農家は、そんなリスクを負う事はできないだろう。

有機野菜の通信販売も大変業績が良いらしい。「有機野菜」=「家族の健康」とすれば「地球環境問題」=「フードマイルの問題」とした場合に、どちらが優先されるのか。

それを「エゴ」>「エコ」と言ってしまうと意地悪すぎるだろうか。

結局は「知る」ための情報収集・勉強の時間が無いと言う。その事こそが問題なのではないか(一応環境などに興味があるという事を前提にしています)。

微生物の研究が進み、バイオ系の技術に期待が寄せられている。私も大変期待している技術ではあるが完全に安全なものなど無いと言うことも忘れてはいけない。

バイオの事故はケミカルの事故などよりずっと恐ろしい。それとも虫も菌も入り込まない工場で作られた野菜の方が良いのか。それとも今の野菜で良いのか。信頼できる農家さんを探すのか。

選択肢が多いと言う事は豊かなことだ。

しかし銃を突きつけられて「金を出すも出さないも、出すとしていくら出すかも、お前の意思にまかせる」と言われても、それは選択肢なのか。食は生命線であるから、大げさとも言えないだろう。

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2008年2月20日 (水)

環境戦隊エコレンジャー

昨日とある会議に出席。

そのとき痛感したのは中心なき存在の弱さである。誰かがリーダーシップをとるなり、調整役をするなりしなければ何も決まらないのだ。私も中心メンバーに名前を連ねるが、最近は中心では無いなと感じているので発言を控えた。結局何の収穫も無い結果に終わり時間を浪費した感覚だけが残った。

誰かを説得するなど目的があると意見ができるのだが、エネルギーをどこへぶつければ良いのかわからない所では困るだけだ。

環境問題も中心が無い。環境とは取り巻く環境のことであり、それ自信の中心は無い。

だからこそ闘いにくいのだと思う。会議も環境も「良く」するのが目的だと思うが、この「良い」という奴が難しい。私の良いと、彼の良い、彼女の良いが一致しないのだ。

私の場合はできる限り「良い」という言葉を使わないように心がけている。そういえば正義の味方を子供の頃から好きになれなかった。

正義の味方は悪者をやっつけるのだけれども、悪者の命は大切ではないのだろうか、とか、悪者が必ず負ける事がつまらなかった。

結局正義の味方は、私の味方ではなく正義の味方なのだろう。

「良い」とか「正義」という「悪」と闘う私は正義の味方から見ると「正義と闘う」=「悪」なので敵になるのだろう。こうなると全員が正義であり、全員が悪である。

だから「私は常に正義の男である」というのは嘘ではないし。

「あなたは常に悪者である」もまた嘘ではない。

「正義は勝つ!」は正義の見方の問題なのだろう。

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2008年2月13日 (水)

おじいちゃんじゃない

名前のせいだろう。

団塊の世代だと思われている方がいらっしゃるのだが、実はもっと若い。

老人だと思われるのは構わない。

老人になるのも構わない。

しかし死が近づくのが嫌なのだ。

学んでも学んでも、さらに自らの無知さだけが明らかになっていくような恐怖がある。

私の最後の日に不勉強を嘆くような事になるのが嫌なのだ。

死ねば無くなるのだから無知でも良いじゃないかと思われる方も居るでしょう。

死んでも無くなりはしないと私は思う。死と共に私の痕跡も全て消滅する訳ではない。多くの物が残るのだ。それを人生と呼ぶのだと思うから、出来る限り痕跡を残そうと羞恥心も含めて書きまくるのだ。

書いている間は少年でも、青年でも、老人でも無い。

私だ

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