哲学

2009年8月 9日 (日)

大人は矛盾している

大人は矛盾している。

そう聞くと、大人に対する批判に聞こえるだろうか
それとも、ある事実を述べているように聞こえるだろうか。

私がココで言いたいのは
矛盾しているものを抱え続ける事が出来るのが大人であるということ。
矛盾を抱えきれずに、簡単に決着をつけるのは子供なのだ。
もちろん矛盾していれば皆、大人と言うのは倒錯した結論である。

善悪や環境問題、それ以外にも色々とあるのだけれど
矛盾せざるを得ないのだ。

例えばCO2と地球温暖化。
これらを正しいと信じるのも愚であり
これらを認めないと言うのも愚なのだ。

CO2が増加していて地球温暖化が進んでいる
その可能性は高い。
しかし、あくまで可能性が高いと言うレベルの話。
可能性が高いと言う事は
「全然違ってました。てへ」
って事もあると言う事。
だから信じないし、無視して良いという訳ではない。
可能性が高い以上は対応もしなければならない。
すなわち
1、地球温暖化すると困った事になる。
2、地球は温暖化している。
3、温暖化の原因は主にCO2である。
この3つは現時点で可能性が高い以上無視できないし
対策を採らなくてはいけない。
しかし、同時に3つが間違っているのではないかと思って居なければいけない。
間違っていると思うものを、とりあえず信じて対応する。
この矛盾が大人である。

私流に言うと、これを
「ハイブリッド」と呼ぶ。
地球温暖化防止しなくてはということと
地球温暖化は嘘であるということの
ハイブリッドである。
それは全く中途半端であり、無意味だと言うかもしれない。

ハイブリッド車(電気とガソリン)も
精々ガソリン車の2倍位の燃費だというだけで
べつにエコでもなんでもない低燃費な車だというだけである。
CO2を出さない車じゃないと意味が無い。
そう言う人もいる。
それは正しい。
しかし現実から離れてしまっている。
今出来る事は、脱ガソリンを謳いながら
ガソリンが無ければ走らないハイブリッド車という選択しか現実味が無い。

そうやって抜本的な解決が出来ず
問題を先送りすることでしか
現実的には物事を運転していく事ができない。

あぁ考えながら打っているから最初の意図と外れてしまった。
本当は
地球温暖化は悪い事だ!とか
地球は温暖化している!とか
温暖化はCO2が原因だ!と断言している人は
本当に環境については悩んでいないというつもりだった。
同じく
地球温暖化の何が悪い!とか
地球は温暖化していない!とか
温暖化の原因はCO2ではない!という人もいい加減だと言うつもりだった。

どちらも自然(地球環境)の事を解ったつもりで言っている
解ったつもりでなければ「こうだ」とは言えないはずだ。
だから私にとっては、どっちも同じなんだと言いたかった。

「自然の事はよくわからない」

これが正解である。
自然を舐めんなよ!!
そう言いたかったのだけれども、
なんだかグダグダになってしまった。
あーあぁ

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2009年2月24日 (火)

痩我慢

痩我慢について書いている内田樹氏のブログ記事が面白い。
痩我慢は内田氏がいつも言う「大人」でなければしない事だろう。
まぁ、こういうことを書いているときに
情けないオトナ(これは只成人しているひと)の顔がいくつも浮かんでいるのだが
そういうオトナは、漏れなく自分に都合よく解釈する。
だから同じ文章を読んで
同じように「素晴らしいですね」と感想を述べる。
私は震えるほどの嫌悪感に疲れて
もう口を開けなくなる。

どうせならもっと誤解しつくしていれば美しいのかもしれないのに

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2009年2月19日 (木)

負けない哲学

隈研吾さんは「負ける建築」という事を言う。
そしてまさに今日現在はこの概念が、主流となっている。
物質主義、サイトスペシフィック、まぁそんな感じ。
という訳で、それに対抗するわけじゃないけれど
「負けない哲学」で行こうと思う。
簡単である。
一般的な勝ち負けで言えば
積極的に負けてしまえば良いのである。
負けるが勝ち。
その方が、色々と学ぶ事は多い。
負けるが勝ちで、私は勝つ。
でも表面上は負けている。
本当に勝ってしまったら
それは勝ちだから良いのである。
かくして勝ったら勝ち。
負けても、負けるが勝ち。
負けないのだ。
負けない私。
誰も負けない社会。
いいんじゃない?

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2009年2月11日 (水)

いざニーチェ

春になって気力が充実してきたので
恐ろしくて手をつけていなかった
ニーチェの「善悪の彼岸」を読み始める。
やはり半端でなく難しい。
ニーチェ以前の哲学を簡単だとは言わない。
しかしニーチェ以降の哲学は
その難しさのレベルが
ドーン
と上がるように感じる。
こんなものを多くの人が読み
理解しているのかと思うと
自分の理解力の低さに歯軋りし
もっと学ばなくてはいけないことを痛感する。
そうはいっても
日常の諸事情が私の時間を奪うし
落ち着いて読もうとする時間には
睡魔がやってくる。
いつ読み終えるのだろう・・・

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2009年2月 8日 (日)

だから愛なんだって

10代のころ「愛」とか「やる気」「情熱」
なんて言う人は大嫌いだった。
戦時中の教育かよ・・・
だったら愛国心と竹ヤリで戦闘機と戦えってんだ。
それが10年経って、現在
全ては「愛だ」って言い出した。
我ながら解らないものである。

なぜか?
それは
仕事でも
趣味でも
友人関係でも
恋愛関係でも
どのような人・物・事との関係でも
続けていくと必ずトラブルや問題が発生する。
トラブルまで行かなくても、より良くしていこうと思えば
悩まされるに違いない。
どうしたら良いか考える。
悩むことと考えることは同じことだ。

だから全てのことは
そんなに割り切れず
善とか悪とか言えず
真とも偽とも言えないから
延々と悩み続ける・考え続ける他にない。
悩むことは苦しいことである。
出来ればやめてしまいたい。
だから、どこかで解ったことにして打ち切りにしたり
そもそも関係を終わらせてしまったりする。

そんな苦しい関係性を維持しようとする
いつも嫌な思いをして
愚痴って
怒って
嫌って
泣いて
喚いて
憎んで
叫んで
時に目をそらして
忘れようとしてみたりもして
逃れようとしたりもする。
それでもやめない
もしくは
やめることができない

それは何ゆえか

愛としか呼べない。

愛するものを
嫌うことも
憎むことも
時に無視することさえも
愛の一面なのだ。

やめる決断をすることさえも
最高に濃い愛だと思うし
やめた後でさえ
いつか、思いを振り切れず戻ってくるかもしれない
そんな可能性がある限り
すなわち
死が人生を強制終了する瞬間まで
愛なんだと思う。

そんな愛に溢れた関係性の中で生まれた作品(物?人?事?)に私は感動する。

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2009年2月 4日 (水)

LOVE is ALL

どんなことも

どんなものも

喜びよりも

圧倒的に苦しみが多い

それと戦うのは

愛が全てだし

愛しか方法も思いつかない。

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2009年2月 3日 (火)

素材主義

負ける建築という言葉が流行ったので、どうしても安易に使いたくなってしまうのだけれど
ようは素材、要素が大事だということ。
これは金融資本主義みたいな実態もなく
一部の現代アートのような技術は無くてコンセプトだけみたいな
それらにコリゴリした我々が
その反動で逆側に振れているだけだと思う。
しかし我々は人間であり
肉体を持っていて
その肉体はヒトなのである。
であれば、素材を無視して色々と出来るわけが無い。
そう考えたとき、私達の世界観はどうしても繋がっているので
それがあらゆるジャンルに飛び火する。
WEBも然り。
情報さえあれば良いというのであれば
WEBは部数の制限もなく
空間の移動も不要であり
流通コストもかからない。
エコロジーでエコノミーである。

それでも我々は紙のメディアを捨てない。
むしろ益々紙メディア自信を愛している。

表層的なWEBと肉体を伴った紙メディア
これは全く違うものである。

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2009年1月21日 (水)

説得力

「リアリティより説得力」
これが最近思っている事である。

本日オバマ氏がアメリカ大統領に就任した。
彼の演説に注目が集まり
演説の上手さが評価されている。
演説というのは説得力である。

ここでもやはり「説得力」だ。
説得力はかっては政治家の演説ではなく
僧侶の説法であった。

説得力=神(仏)

だったのだが、それも今は
神は死んだという言葉があるように
神から科学へとシフトしてしまった。
この

説得力=科学

というのは、ただ神が科学に置き換わっただけである。
ニーチェがしたように
もしくは科学の不完全性があるように
最終的には人間がすることであるため

説得力≠真実

であることは変わらない。
(リアリティが本物ではないのも同じ)
結局、我々は真実(本物)を手に入れようと必死なのだ。

しかもそれが手に入ってないのに
暫定的に、それ(神⇒科学、演説)によって
人々に真実(本物、正義、安全、環境に良い、善、etc)だと信じ込ませている。

信じ込ませる。
それが説得力。

「信じるものは救われる」
どう受け取る?

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2009年1月16日 (金)

哀れなアート

アートは元々宗教から生まれた。
信仰心や、原始の祈りが絵を描かせた。
そして教会、寺社仏閣といった宗教建築とともにアートは歩んできた。
アートは常に建築と一心同体であり
仕える主は神仏だった。
それが建築からの独立を獲得し
いまでは建築をアートが支配できるまで力が逆転した。
そして哲学と経済、科学が
三位一体となって神を攻撃して
神は死んでしまった。
アートは仕える主に先立たれた。
支えてくれていた建築も
いつしか自分が支えなくてはいけない立場になった。
アートはアートだけで自立しなくてはいけなくなった。
アートの専門家はガッチリと理論武装して
なんとか生命維持をしている。
しかし、アートは関係性の中でしか存在しない
すなわち
アートではないモノ
普通なモノと対比しなければ
アートとはならない。
アートはこれから人に仕えるべきだと確信している。
それなのに
アートは益々
経済・お金という主に仕え始めている。
アートの先輩は学問である。
学問は、もっとずっと前に産業に仕えている。

いつも感じることがある。
アートは学問の後追い。
しかも
アートは経済に仕える。
私はアートを哀れむ。

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2009年1月15日 (木)

我々は悪を待望している

「希望は戦争」と言った人が居る。
別にそれとは関係ない。
最近は「関係性」というのがマイブームである。
上司というのは、上司だけでは存在できない。
上司は部下が居てはじめて成立する。
親は子が居なければ、親になれない。
自然も非自然があってはじめて自然となる。
だから自然を大事にとか
漠然と森やアマゾンが自然だとイメージするが
そのイメージは間違えている。
AとBを比較して、どちらがより自然っぽいか
というのが自然の正体である。
違うというならば
「自然」というモノを取り出して見せて欲しい。
同じように正義と悪がある。
正義の人というのはイメージできるだろうか?
逆に
悪人をイメージすると簡単では無いだろうか?
人を殺すとか、物を盗むとか、レイプするだとか
悪いことなんていくらでも思いつくし
それをしている人をイメージすれば
悪人なんてすぐイメージできる。
しかし
何かをすれば正義の人という事は無い。
一番イメージしやすいのは
悪と戦う人である。
戦隊ヒーローや、スーパーマン
現実では警察官や検察官あたりか
彼らは悪と戦うから正義であり
悪が居なければ、役割を失う。
悪は自立した存在であるが
正義は実は悪に依存した存在なのだ
だから正義になりたい人は
必ず悪を生む
それは犠牲者がいるということ
正義こそが最も悪い奴だという事に気付かなければいけない。
正義の為には悪が必要で
我々がヒーロー(正義)を待望するならば
それは悪を待望しているに他ならない

搾取する資本家
イラクで戦争を始めたブッシュ
地球を破壊するCO2

こういったものがあって初めて
対抗する正義がある/生まれるように思う
正義には個性もオリジナリティも無い。
だから悪に魅かれるのかもしれない。

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2009年1月14日 (水)

LOHAS(ロハス)とは何かを考える

我々は地球に生きている。
基本的に地球は太陽光というエネルギーが入ってきて、熱エネルギーが出て行くだけの機関である。
物質的には出入りがほとんど無く、地球上で循環しているだけである。
だから私達の身体を構成している素材も、物質循環の一部である。
だから人間は環境の一部である。
例えば水に着目すると、水は地球から出たり入ったりしないで地球上で循環している。
循環のある一瞬に我々の体内にあるのだ。
そういった繋がりを考えれば環境と健康は直結したシステムである。
ヘルス(健康)とサスティナブル(環境)の組み合わせは、とても自然な組み合わせだ。
一般的に何かを選ぶときに環境負荷がより低いものを選択するとエコだと言っている。
ペットボトルを選ぶ人は、その軽さ・薄さ・丈夫さによって破損のロスや輸送時の環境負荷の低さを主張してエコだという。
ガラス瓶を選ぶ人は何度も使えることや、ペットと違い完全な再生が可能であるという点を主張してエコだという。
アルミ缶を選ぶ人は軽さ、薄さ、丈夫さに加えてリサイクルの容易さを主張してエコだという。
どれを選んでもエコになるのだ。
生産、流通、廃棄の3つで起こる問題は全く次元の違う話なのに
環境問題という同じ土俵に乗せてしまうから、まともな判断ができなくなっているのではないか。
結局は利益に関係している人間からの偏ったデータを参考に自分で決めるしかない。
膨大な論やデータを普通の人が集めて比較するなんて技術的にも、時間的にも困難である。
だからなんとなく良さそうだったり、みんながしているとか、昔からしているように自分も行動する。
なんとなく良さそうだという脱理性的判断で物事を決めようという姿勢(思想?)をロハスの思想と呼ぶと、ロハスは考えるではなく感じる事ではないか。
思い起こしてみるとロハスピープルは感性を大事にして、身体や自然の声に耳を澄ませていそうなイメージがある(私だけか?)
考えるより感じるという考え(「感じ」とした方が良いのか)は、考え抜いた末に感じるのと、考えないで感じる事がごちゃ混ぜにされるあたりサブプライムや食品などの色々な偽装の様だ。
ロハスと偽装というのが根本的に相性のいい理由はこのあたりか。

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2009年1月 8日 (木)

書を捨てよ。街へ出よう。

ある先生にお聞きしたことがある。
「間違えないためにはどうしたらいいのか」
そのこたえは
「一人にならない。人と話をする。」
と言う事であった。
私自身も議論や対話の中に真実?力?があると思っている。
人はよく
議論しても決着しない
中途半端な折衷案になる
その結果が芳しくない
解りあえない
等など、議論や対話は無力(無意味)だと言う
それは結果だけを見ているからである。

重要なのは結果ではない。
むしろ変化の方だ。
例えば
「負けるが勝ち」の、ひとつの解釈に
議論で負けた人は
自分の知的なレベルアップに繋がった
議論で買った人は
優越感しか残らない
だから議論に負けた人の方が
得るものが多く、勝ちだ。
というものがある。

議論の途中で気付く事は多い。
それを得ることで自分自身が変化する。
まぁ成長と言ってもいいし
修正されると言ってもいい
議論自体の結果や結論は
あまり重要ではない。
議論にしか注目できない人は
枠に捕らえられた
視野の狭い人である。

そして自分という枠にはまっていることに気付いていない。
自分を超えるには、他者が必要なのだ。
他者との理解(もちろん完全な理解は無いとはいえ)には対話や議論しかない。
本を読んでも、その解釈は自分の中でしか起こらない。
一人で本を読んでいても無理なのだ。
引きこもりは、どれほど深く悩んでも
解決や脱出へとは至らない。
もしくは脱出するには対話しかないと
結局、「引きこもるのをやめる」
という結論を得ている。
書を捨てよ。街へ出よう。

しかし「書を捨てよ。街へ出よう。」
という言葉が、そういった意味で言われたかどうかは
議論の余地がありそうである。

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2008年12月30日 (火)

無限の彼方

分裂勘違い君劇場」というブログをみつけた。
とても極端な認識ではあるが、そのぶん面白いし、解りやすい。
極端な話というのは無限の世界と似ているなと思う。
無限というのは、理論・理屈・計算ではそうなると理解できるし、多分そうなるのだろう
しかし無限というのは、物理的に不可能なので、実現することはできない。
理屈だけで、実現できないというのが極論と似ているのだろう。

極論は非現実で特別な状況だと思う。
同じように無限の世界では特別なことが起こる。
0.9999・・・・・と無限に続く数
1に近づいて、でも1には触れない漸近線を思い浮かべてしまう。
しかし無限での証明では、これは1に等しくなる。
証明は
0.999・・・をAとすると

A=0.999・・・
10A=9.999・・・
10A-A=9.999・・・-0.999・・・
9A=9
A=1

となる。
絶対に重ならないと思われていた線が重なる。
無限の彼方では特別な事が起こる。
重なることの無いはずの線も重なる。
この事は
解り合えない人も、もし無限の時間と根気があれば必ず分かり合えるのだと
絶対分かり合えないものは無いのだという夢を与えてくれる。
私達はそれを待てないだけなのである。

無限であり、極論であるから実際には無理だと笑われるだろうか

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2008年12月29日 (月)

「いいひと」は迷惑です

なんだか、少しアクセスが増えていた。
おそらく「さんま・福澤のホンマでっか!?ニューススペシャル」の性ではないかと思う。
私は飲み会に行っていたので、この番組見ていないのだけれども、内容にいくつかエコの問題を、テレビの普通とは逆の方向で解説されていたらしい。

まぁ、そんな事はどっちでも良いのだけれども
本当に世の中には「いいひと」が多くて困る。
もう少し正確に言うと
「善いことをしたい人」
もしくは
「自分を善い人だと思い込無のではなく、本当にそうだと思い込んでいる人」
彼らは私からすると、とても迷惑な人である。
基本的に「いいひと」が嫌いである。
彼らは「みんなで」しようとする。
すなわち常に自分は正しいと確信しているのだ。
正しくないかもしれないと疑う能力が欠落している。
きっと、そおいう人は自分の頭で考えていないと私は決め付けている。
そうでもしないと説明が付かない。
だって自分で考えていれば「みんな」同じ考えに至るわけが無い。
それは、景気回復には
<消費税アップ>そのかわり住宅などの最低限の生活保障をする。生活不安が不景気の原因だから。
と考える人
<消費税ダウン>それによって消費を刺激して不景気対策をする。
と考える人。
同じ時代に生きて
同じ社会現象にぶつかっていて
同じくらい正しいと思われる。
それでも真逆の結果に至る。
いいひとは、浅はかなのだ。
きっと戦争が始まれば、喜んで戦地に家族を送り
より多く殺してきたことを褒めるようになるだろう。
私は戦争を起こすのは、いつも「いいひと」だと確信している。
むしろエゴイストや悪人だけが戦争を止める事が出来るのだと信じている。
しかし「いいひと」こそが本当のエゴイストなのだ。
エゴイストや悪人は、むしろ、その社会的な役割を担わされている本当の善い人なのだ。
今回、わざと複数の、さらに真逆の意味で「いいこと」や「善い人」「善人」を、ごっちゃにして書いた。
書き分けるのが面倒だっただけなのだが
世の中には賢くない人(と自ら思っている人)は居ないのでキチンと読んで下さい。

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2008年12月23日 (火)

「呪」と「祝」

『大人のいない国』(鷲田清一,内田樹)を読む。
鷲田氏、内田氏共に平成のスーパー売れっ子哲学者なので、面白いのは言うまでも無く、さらに二人がセットという組み合わせはお得というか美味しい一冊。
バランスはやや内田側が多かったかなという心象を受けた。
ブログなど読んでいるので、新しいことは少なく感じたが、呪いと祝いのことについて書かれた部分は面白かった。
同じ言葉・情報でも
発信者不明=呪い=批判
発信者明確=祝い=批評
といった図式(すんごく簡単に言うと)を見て、自分がWEB2.0やBBSに対して感じていた疑問?疑念?信頼できない感じが良くわかった。
これについてはネットの信頼について書いた記事での信頼は個人にしか帰属しないという考えとリンクしていてスッキリとした。

そして呪いが破られる(発信者が明らかにされる)と呪いは跳ね返ると言うが、何でだ?と思っていた長年の疑問も解消した。
安全な場所からコソコソと人を貶めるような事を画策していた人物は、それがバレたら、その人は信頼を失う。
さらに信頼を失った人の発言は過去を遡ってまで無効になり、狙われていた人物へのダメージも多少なりとも回復するに決まっているではないか。
魔法の様だが、我々は過去を書き換える力を持っている証拠でもある。

陰陽師が廃れても、哲学者が消えないのはこんな事からかもしれないなぁ

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2008年11月24日 (月)

農のいとなみ、耕すこころ

西田幾多郎記念哲学館で行われた上映会「いのち耕す人々」を観て、さらに映画にも出ている星さんのお話を聞かせて頂いた。
時代と逆行してでも信じる道を進もうとした若者たちの姿には心を打たれた。
そして、その時「精神的村八分」を味わったという言葉は、とてもよくわかる。
それは今も、色々なところで、色々な形で起こっている。
「そんな事をしてはいけない!」と大きな声をあげるタイプの人間は特に率先して、こういった事をする。
きっと相手には伝わらないだろう。
しかし私と同じような状況・境遇で戦っている人に勇気を与える話をもらった

農業の近代化を進めて、国際競争にも負けない農業をして、みんなで豊かになろうと一致団結しようとしている時に「有機農業」やら「空散(農薬の空中散布)反対」して、もう一度昔にでも戻る気か?と良くて変人、悪ければ精神的な村八分にされていた。それが何年もかけていくうちに「まだ農薬使っていると悪いことしているみたいだ」というところまで頑張った人たち。

みんなで一致団結して良い方向へ頑張ろうとしている人の「いいこと」という暴力は、悪人の暴力よりたちが悪い。
それと立ち向かう将来の英雄は、今日は変わり者・厄介者・嫌われ者である。
有機農業では雑草や害虫が沢山発生する。それが発生しないというのは偽有機なのだ。
ここまで書けば何が言いたいかわかるだろう。

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2008年11月16日 (日)

冷静と情熱の間しか無くないか?

内田樹さんのブログを最近になって読み始める。今日のような休日にまとめて読もうとするとすごく疲れるし、読みにくい。ブログって読みやすいですか?只だから良いけれども、お金を出してまでは見たくない。やっぱり本を買うなぁと。
ネットの内容にヒトはそんなに影響をうけますか?
影響をうけなければCMの効果は広告代理店の大本営発表に言いなりで、うける事として処理しますか?
なんだか私の周りで「ポータルサイト」を作ろう、もしくは作ったらどうかという話が増えている。
個人的には2,3年になるどうか?ライブドアがが行け行けゴーゴー!という時代の話に聞こえて仕方がない。
ネットバブルに浮かれたボケが、バブル崩壊して冷静になったけれども、また金融やら新興国によるバブルで、戦後最高の好景気というものでボケているんじゃないのか。
そしてその好景気も躓いたので、もうすぐ冷静になるのだろう。
情熱というのはボケである。馬鹿でもいいんだけれど。愛が情熱的になれば「色ボケ」「バカップル」と呼ぶし、他にも「○○キチガイ」「○○狂い」「○○信者」なんて言い方もする。
ヒトは何故こんなにボケやすいのか。でも平和ボケしていられるのはとても幸福なことであるので、ボケは幸せと平和の証だから嫌う必要はないという面もある。
webの未来について考える。面白いことが出来るのではないか。可能性を信じている。信じる根拠はテレビやラジオの視聴時間は横ばいか低下しているのにインターネットの閲覧時間は延び続けているからだ。
そして端末&アクセス方法の多様化&廉価化によって普及もますます進むだろう。
しかし内容はとてもつまらないままだ。
むしろ紙に劣るメディアになりつつある。
それは先日より書いているように「出会い」を生みにくいと言う事だけではなく、紙で出来ることを、単にコスト削減だったり、届け方が物理的制約をうけないというメリットで使われている程度だからであろう。
ネットでしか出来ないものがWEB2.0ではガッカリだ。
そうは言いつつも、結局なんだか緩やかに全てが融合していくように見える。
幸せという価値軸では貧困も裕福も大して影響力を持てず。
資本主義は破綻して、公的資金の流入で社会主義化が進み、社会主義はとっくに少しずつ資本主義のDNAに侵食されている。
男と女もなんだか似たような性向を示し。
メディアもそれぞれの利便性をつきつめると言うよりは、適度にミックスして効果を狙う。
ストイックという価値観が消滅していって「効果原理主義」に世界は一極集中してきている。
それ以外では他人を納得させることが出来ず、益々単一の物差しを必要としている証拠こそが「これからはコミュニケーションの時代」ということだろう。コミュニケーションは嘘だ。単に通じるかどうかという話をコミュニケーションを呼んでいるに過ぎない。
もう全部ぐだぐだになっているから厳しいという概念も出番が減っていくだろう。
均質化、均一化しているとしか思えない時代。
エントロピー増大の法則ですね。なんて科学法則を当てはめて、わかった気になっても仕方が無い。
システムは生命や生態系、キャッシュフローを考えればわかるように、流れていて初めて生きるのだ。
流れこそがシステムであり、流れこそ活力である。
では流れはどのようにして起きるのか。それはご存知のとおり高低差や密度差によって起きる。これを富や権力の高低差・密度差と読み替えてもらっても良い。
差別をしようとか、二極化を進めようなんてかけらも思わない。
しかしこの平等であり、均質になろうとしている世の中は、自らの内にでも高低差や、何かエネルギー源を持たなければ、どんどん淀んでいく。
実は極端な話、冷戦だとか戦争だとか、貧困と裕福などの強烈な二項対立のようなものがある方が社会システムは安定するという悲しさ。
それを歓迎するわけには行かない理性の苦しみ。
問題点の列記は限りなく多い。
しかし問題の解決が、新しい問題を2つ以上生むのであれば解決せずに放置するというのもまた正解である。
それを抽象的に表せば「所詮は、お釈迦様の手のひらで踊るような」ものであり、我々は真理に近づいた訳でもなく、何かを変えることが出来たわけでもないと斜に構えて言うしかなくなる。
冷静とボケの間を行き来するのは、そうやって何処かにある富をマーケットは吸い込み、また何処かへ吐き出すという命の呼吸なのかもしれない。

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2008年8月18日 (月)

本物

本物と普通とでも言おうか。

「闘うデザイナー」だとか「闘う料理人」だとか「闘う○○」という風に言う人が居るが、私はこれに違和感を覚える。闘っていない人なんて居るんですか?

公務員は全員闘っていない。主婦もなにとも闘っていない、ホームレスも闘っていない。そういう事なのか。

いや僕の言う「闘う」は違うんですよ!と言われても闘い方だって、闘う対象だって人によって違う。だから「闘う」と言う言葉が人と違うなんていうのは、当たり前である。それを限定するなら「施主と闘う建築家」とか限定するべきだ。

生きている人間は全員闘っている。自分と、老いと、社会と、、、、、だから「闘う」なんて言葉を付ける必要は無い。闘うということは本当はもっと静かで、辛く、苦しい葛藤のようなものだ。それを言葉にする=客観化して、さらに他社に共有してもらおうと名乗るなんてありえない。「闘っている自分の理想像」に酔っているだけか、闘っていない自分を恥じて、それを隠蔽するのに必死なのかと勘ぐってしまう。

昨日、ある女性の画家さんとお話をした。よく金沢城でスケッチをしているというので、私は安易にも「それじゃ金沢城の植物展とかそお言うテーマで個展をしたらいいんじゃないですか」と言ってしまった。

それに対する彼女の答えは「NO」。

そうすれば「地元の事を愛しているいい人」だとか「郷土ネタとしてメディアも扱いやすい」だとかメリットは山ほどある。しかし彼女は自分の絵を見てほしいと言う。絵で勝負するのだという。

私は感動してしまった。

最近は「地産地消」だとか「郷土野菜(石川では加賀野菜)」、他にも仲間になるのは「ロハス」「エコ」「食育」など。そういった言葉を武器にして闘うやからが多い。

まるで流行に乗っかり、実力よりもそういった二次的なものが主役なような振る舞い。

画家は絵で勝負する。料理人は味で勝負する。

そういった本来の姿が失われているように思う。もちろんそんなつもりは無くて「絵」プラス○○、「味」プラス○○でしていたのが段々ウエイトの置き場所が歪んでしまい、本末転倒する。だから彼らは自信を持って、疑いも無く自分を本物であると考えている。

だから全員が本物かと言えば、そうではないのは自明であろう。

画家の実力は郷土愛の深さと別に観なくてはいけない。

画家は郷土を描くから取材されるのではなく、絵の良さを取材されるべきである。

「地元野菜を使った○○」とか「本物の○○」とか「闘う○○」とかは、本質的な実力や作ったものの素晴らしさを消し飛ばすくらいに人間としての卑しさが滲み出ている。

ビジネスだから仕方が無い?

仕方ないという言葉は妥協したということであろう。それをもって「闘う○○」と言う無かれ。

ビジネスをするのは良い。儲ける商いも良い。しかし「何が悪い」と堂々と言うほど偉いものでもない。

尊敬できる大人が少ないものだ。

本物/ホンモノとは

偽物/偽者とは

普通/それ以外とは

あなたはどうやって生きていくのか。

私はホンモノだろうか。

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2008年6月 5日 (木)

二十世紀最大のアート

もうすぐ21世紀も1割が終わります。

20世紀から何かが変わったのでしょうか。

個人事で申し訳ないのですが私のテーマでもある「環境」に興味が集まり、少しずつではありますが知識が得られてきています。

アートとは元々、人工物という意味。実は政治も経済も戦争もアートなのである。そのアートである戦争を解決するのもアートだ。その中で最大のものは「環境破壊」もしくは「環境問題」だと思われる。

人類は平和を願いながらも、平和を勝ち得る事はできなかった。まぁ、勝ち得るという発想自体が勝ち負けだから戦い=戦争の素なのかもしれないが。

しかし世界中が共通の問題として環境問題に取り組もうとしている。戦争は最大級の環境破壊である。となれば、もはや戦争と言う贅沢はしたくても出来ない世界になるかもしれない。

もっと環境を破壊して、人類が立ち行かないほどの深刻な問題が目前にまで迫った時、その時の地球は戦争がなくなるのではないか、しかも完全に環境が回復するのには途方もない時間がかかる。ある意味サスティナブルな問題だ。

乗り越えられることもない平和への重しになれば環境問題は最大というだけでなく、素晴らしい人類の創造物=アートになるかもしれない。

それとも貴重となった資源を奪い合って殺しあうのだろうか・・・・それもアートだから良しとすれば良いのか

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2008年6月 4日 (水)

絶対待つ

鷲田清一「待つということ」を読む。

そして平行して読んでいたフォアビギナーズ「西田幾多郎」も読み終わる。

どちらも哲学の本なので時間がかかった。しかしどちらも面白かった。

ある事柄があって、それをぐるっと内包する概念がある。だけれども、それだって何かに内包されている。そしてさらにそれさえも内包する別の何かがある。しかもそれは前の段階で内包済みの小さいカテゴリだったりしてパラドックスのようなことになる。

それを延々と追いかけているという感じだ。待つということでは全てを「待つ」に結びつけながら、待っていると言う時は何かを待っては居ないといい、しかし待つというような待つのカテゴリーがマーブルのように広がる。

西田にしても「無」について、「無」と言っても「無」があるわけだから、それさえもない「絶対無」を仮定して話を進める。それはあくまで仮定の話で「絶対無」なんてありえるのかは、現実としては難しい。では2冊を平行して読んだ感想として「絶対待機」というものも考えてみたらどうなるのだろうか。

それは待つこと自身が目的かつ方法となるということなのだろうか。だとすると絶対待機というのは宗教のようなものか(と言ったら宗教家は怒るのだろうか)

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2008年5月28日 (水)

無計画という計画

昨日の「無意味の意味」のシリーズ(?)です。

無計画というのは、完全に未来に対し何も考えていないというのとは違う。

もちろん計画がなされているのでもない。しかし対極に位置していると考えられる「完璧な計画」というものはありえるのだろうか。それは予知であり、予定調和ではないか。そんなことありえるのか、仮にあったとしても面白いのだろうか。

色々なことが起こることを知っていて(無意識にでもいい)どれにでも対応できるというのは計画というのだろうか。

自分の世界観が大きく、知識をつけて、視野が広くあれば、どれも想定の範囲内に収まる。しかし、それは計画とは違うものである。世界観や知識、視野をまとめて人間の器と呼ぶのであれば、器を大きくすることが全てへの備えではないか。

緻密に計算された計画ほど、一点の狂いで崩壊しがちである。

それに対して無計画の計画はありとあらゆるハプニングを内包する分強い。

武道の達人の構えは隙だらけ、それが返って隙が無い。というのと似ている気がする。

さぁ次の旅行は向け行くの計画で出かけますか?それとも計画して出かけますか?どちらが得るものが大きいのでしょうか

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2008年5月27日 (火)

STOP自殺

私と同じ金沢出身の川田亜子さんが亡くなられた。ニュースでご存知の通り自殺である。

同郷の美人であり、密かに応援していたのだが残念でならない。

人はなぜ自殺するのだろうか。当然その理由は千差万別で十把一絡に「良くない」とか「やめよう」と言ったところで無駄であろう。

キエルケゴールは死に至る病を絶望と言った。川田さんも自殺前に自身のブログで「母に生きている意味を聞いてしまった」と書いている。もちろんそれが理由かどうかなど死者に聞くことはできないので、真実は闇なのだが、「絶望」「生きる意味」というのはキーになると考えられる。

どうせ慌てずとも、どれほど拒否しようとも死は訪れる。ではなぜ自ら死を選ぶのか。それは人生の残された時間に何の意味も見出せず、もしくはマイナスだけ(苦しみだけなど)しか見出せず、明るいものが無いと考えるからであろう。

辛いだけの時間であれば、退屈なビデオを早送りするように飛ばしてしまえばいい。それが自殺だと私は考える。

「絶望」=「残りの人生に意味が無い」と考えることは「人生に意味がある」の反作用であり、更に言えば「目標を持て」とか「人生は美しい」とかいうものの持つ反作用では無いか。哲学ちっくになっていく私が、いつの日か自殺するのではないかと心配してくれる友人が居る。しかし、それは無い。

重複になるが自殺する人は、残りの人生に意味を見出せないと言うことだ。

私は既に自分の人生に意味を見出していないし、そおいう意味では、ずっと昔に絶望しているし、一度死んだ事がある(これについての説明は長くなるのでまたいつか)。

とっくに自分の無意味さに気付き、受け容れてしまった。

しかし死には至っていない。それは「無意味の意味」を知っている、いや知っていると言うのは言いすぎで、無意味の意味というものもあるはずだと、妄信しているからである。

現代人は夢をもち、目標を高く設定して、激しく競い合っている。無駄や非効率、空虚な人生を嫌い、中身の無い人間だと言われることに嫌悪感を感じている。

そりゃぁ、死ぬしかない。止められない。むしろ死なないで生きている馬鹿な奴の鈍感さに腹が立ちさえする。

しかし無意味にも意味があるのであれば、真の無意味は消え去り、絶望もなくなり、残りの無駄な人生を楽しむ事だって出来るはずだ。

無意味の意味を知るときに絶望は消え、人間は救われるのではないかと思っている。

くだらなくて、恥ずべきで、無価値だと

決め付けるのはあなただ

しかし、それは社会の価値観に大きく影響を受けている。実はあなたでありながら、あなたではない。自殺しようとする人は、もっと勉強するべきだ。

私ならこう言う

「死に至る病は無知である。」

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2008年5月26日 (月)

マンダレイ

ラース・フォン・トリアー監督のマンダレイです。

ドッグヴィルの続編で3部作のはずが、3つ目のワシントンがいつになるかわからないというやつです。

テーマがアメリカ・人種(黒人)問題・奴隷と言ったところなので、なかなか日本人には理解しにくい話です。

しかし奴隷として縛られていたのが、開放されて、自由=自分で決めなくてはいけない=失敗も自分の責任。そんな世界の苦しさにたいして劇中のキーアイテム「ママの法律」は皆に役割を与えることでうまくやっていく方法だ。

今日は西田幾多郎記念哲学館の市民講座を聞いてきたのだが、そこで語られていた、自己同一性の問題、世界を認識する自己がシナリオを書き、その自己が自分の社会的立ち位置を作り、演じるという事と自然とリンクしてきた。

「生きるのに必要なもの」や「自由」というのは難しい。劇中の黒人のように、それについては深く考えないほうが安全で、楽しい生活が送れる。あなたはどうか

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2008年5月25日 (日)

活性化に絶望した

東京に住んでいた。それから金沢に移り住んでいる。

最近思うことがある。活性化こそが死への道ではないかと。

解りやすいのは活性酸素が細胞を殺すということ。これを街に置き換えると、街の活性化が進む、細胞である町の店や住人は死ぬ。

解りやすい例は我が町に大型ショッピングセンター(大企業・大資本etc)がやってきた。それを中心に発展するかもしれないが、小さいお店などは消え、結局日本中同じ風景となる。そして、そのショッピングセンターなりが去ってしまうと、街は死に絶える。

活性酸素の話だけではなく、生物界では同じような話は多い。

ある動物が増えすぎれば、かなりその後劇的に減る。もしくは絶滅する。

ある植物が生い茂ると、ある時に何らかの原因でその植物が死ぬと、まるで全部の植物が死んだような風景が出来る(日本は自然が強いので実感しにくいが)。生物多様性を大事にしようとか、エコロジーをと考えるのであれば街の生物多様性や、街のエコロジーに関しては考えないのか?北極熊のすむところが無くなるとヒステリックに叫ぶ前に、商店街の金物屋さんが無くなると叫ぶべきではないのか。

金沢でも町の活性化の為の活動がいくつもあり、また一つ始まったという記事を発見する。活性化が進めば死も増える。死人は声を出さないので活性化の良い面ばかりを見ている。この記事から死者の声、死者の警告を読み取って欲しい。

経済の話(環境問題)・ニュースや活性化はまるで戦争中の本営発表のようだ。

疑問を持ったら非国民であるという変わりに「KY」という言葉までセットで開発したファシズム。

死者の声を聞かせない、もしくは聞かせないために殺すという「死人に口なし」の偏った情報=フィクション。

街の活性化の代表者たちに群がる各種メディア(今回の情報リソースにリンクした2社様申し訳ありません、あなたがただけではありませんのでお許し下さい)という流行=ファッション。

そうであるエコの時に書いたようにこれも3Fなのだ。

大儀という旗を降ろしなさい。

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2008年5月24日 (土)

ブラックブラック

ドイツ戦争(テロ)シリーズという訳でもないのですがレンタルビデオ店で同じコーナーに合ったので取ったのでしょう、「ミュンヘン」「アドルフの画集」と今日の「ブラックブラック」です。

中ではブラックブラックが一番良かったように思います。

戦争中の善と悪の反転。それは複数の意味をもち平和時の善を戦争時になそうとすれば、それは悪であり、平和時の悪は戦争時に善になったりする。それが戦争前後でどう変化するのか。悪だったものは心は悪のままでも、表面的な善になり英雄になり、善を貫こうとしたものは返って悪に処されたり・・・

善や悪がどれほど薄っぺらく、人々のいう善悪こそが悪といいたくなるような心押しつぶされる展開。しかもヒロインはどうなってしまうのかという緊張感が続くのですが・・・

このまま終わらせてしまうと「人間=悪」というような感じを受けるとか、重苦しくなってしまうと感じたのでしょう。悪は逃げ延びるまえに殺され、そこで不必要なカタルシスを覚えさせ、ヒロインもなんとなく平和で幸福で、善意の人としてエンディングを迎えます。人間の存在に対して、世界は多くの人を苦しめる加害者集団であり被害者集団。それは戦争前後に強く発揮される。そんな、しっかりと受け止め欲しい事実が、カタルシスとハッピーエンドでボケてしまう。

いうなれば素晴らしい名画を描いて、最後の仕上げに上から白のペンキで塗りつぶしたようなもったいない作品です。ヒロインは誤解されたまま死んで欲しかった。

きっとその方がリアルだ

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2008年5月18日 (日)

四高教授としての西田幾多郎

とても解りやすい講義だった。

浅見先生はわかりやすく説明しようとするあまり、ちょっとくどいと感じる時があるのだが、今回のは解りやすかった。

というのも人となり、生活についてが多く、哲学の内容領域は今回はあまり触れられていないので当然と言えば当然か。

しかし、本当に西田は面白い人物だったのだろうと感じる。

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2008年4月 8日 (火)

こんなに早くに結果が得られるとは

先日の友人との口論で、ぐったりしていた私へ神の恵みかと思うほどの事件が起こった。

というのは大好きな「爆笑問題のニッポンの教養」現代の「知の巨人」松岡正剛の回を見逃していて、やっと再放送を見れたのである(本当は昨日見られるはずが突然の国会中継で無くなり、二度もお預けを食らったのである)。

最高に爽快であった。松岡氏の一言一句が、先日自分の語った内容をトレースしているのである。もちろんその裏にある思慮や考察の深さ・広さの差や支える知識の強さは桁外れであり、放送時間の関係から色々な内容が抜け落ちていたという事は理解している。

それでも少なくとも発せられた言語とロジックが、ここまで他人と一致したのは久しぶりであり感激と共に、恐ろしいほど驚いた。

その中でも印象に残っているのは「日本は元々デュアルな国」というフレーズである。

矛盾する二つを、同時進行的に持ってきた文化。

文字を作らず輸入した国。

漢字に音読みではなく、訓読み(日本読み)を付けて、わざわざ二つの読み方を作った。

「カナ」と「かな」を二つ作った。

全て不必要であり、非効率的であり、矛盾する。これを論理の破綻と呼んで攻撃するのが現代人である。まぁ、そのあたりは一人一人が考えていただければよい。

本棚に未読の「中庸」という本がある。これの読書前感想文という意味不明のものを書くとすると(実際にはありえない読書前感想文という言葉が作れるあたり、言語は面白い)、

AとBと完全に矛盾する事があったばあい、理論でいうと「どちらかを選択する」ことになるらしい(私の周りの人間はそういっている)が、私はその矛盾する両方をどちらも真として、もしくはどちらも誤として持ち続け、その間でバランスを取る。それを中庸と考えている。さて中庸と言う本には何が書かれているのか。全然違うことが書いてあると面白いのだ。

他人は私の浅はかさを笑うだろうが、こうやって自分自身で作った理論が、誰かと一致したときの感動(今回の松岡氏のように)、反対に全く違ったばあいのズレは楽しいのである。

結局は自分がオリジナルだと思っている事は、過去の誰かのトレースであるが、私がその事実を知らない間は私の環世界ではオリジナル理論なのである。

無知は罪であり、知らない事は恥ずかしい。しかし、知るために無知を晒す事は必要なのではないか?知らない事には触れなければ良いというのは、、、そんなもんなのか。間違っても良いから挑戦しようと思う私は若いのか、只の甘えか。

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2008年4月 7日 (月)

幸福とは何か

ゴミ出しのマナーが悪いため自治体がゴミを開けて注意をしているらしい。

その関連の調査でゴミの分別きちんと出来ますか?というのをやっていた。かなり自信のある人も間違えていた。エコのために何ができるかわからないと言う人は、まずゴミ分別のプロフェッショナルになってもらえば良いのではないか。

食の安全が騒がれている。自然・無化学であれば安全だという単純思考の問題はあるが、今日はその事は置いておいて、大人気の「有機野菜」について。それだけ有機だと言うが有機野菜の正しい定義を知っているのだろうか?減農薬との違いは?

次の偽装は有機野菜偽装だろう。誰が有機野菜と、化学薬品を使った野菜を食べ別けできるのだろう?すぐに健康を害する毒が入っているわけでもない。ロハスは偽装がしやすい悪の巣窟なのだ。ロハスを語るものは全て疑った方が良い。

有機野菜を作ると言う事が、どれほど大変なことか解らないから「有機野菜が良い」と言えてしまうのだろう。有機野菜の隙間から芋虫が出てきても、それを喜べるのだろうか?うっかり虫の卵を食べてしまい新しい病気(?)になっても許せるのか。許してもらえないならば農家は、そんなリスクを負う事はできないだろう。

有機野菜の通信販売も大変業績が良いらしい。「有機野菜」=「家族の健康」とすれば「地球環境問題」=「フードマイルの問題」とした場合に、どちらが優先されるのか。

それを「エゴ」>「エコ」と言ってしまうと意地悪すぎるだろうか。

結局は「知る」ための情報収集・勉強の時間が無いと言う。その事こそが問題なのではないか(一応環境などに興味があるという事を前提にしています)。

微生物の研究が進み、バイオ系の技術に期待が寄せられている。私も大変期待している技術ではあるが完全に安全なものなど無いと言うことも忘れてはいけない。

バイオの事故はケミカルの事故などよりずっと恐ろしい。それとも虫も菌も入り込まない工場で作られた野菜の方が良いのか。それとも今の野菜で良いのか。信頼できる農家さんを探すのか。

選択肢が多いと言う事は豊かなことだ。

しかし銃を突きつけられて「金を出すも出さないも、出すとしていくら出すかも、お前の意思にまかせる」と言われても、それは選択肢なのか。食は生命線であるから、大げさとも言えないだろう。

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2008年2月20日 (水)

環境戦隊エコレンジャー

昨日とある会議に出席。

そのとき痛感したのは中心なき存在の弱さである。誰かがリーダーシップをとるなり、調整役をするなりしなければ何も決まらないのだ。私も中心メンバーに名前を連ねるが、最近は中心では無いなと感じているので発言を控えた。結局何の収穫も無い結果に終わり時間を浪費した感覚だけが残った。

誰かを説得するなど目的があると意見ができるのだが、エネルギーをどこへぶつければ良いのかわからない所では困るだけだ。

環境問題も中心が無い。環境とは取り巻く環境のことであり、それ自信の中心は無い。

だからこそ闘いにくいのだと思う。会議も環境も「良く」するのが目的だと思うが、この「良い」という奴が難しい。私の良いと、彼の良い、彼女の良いが一致しないのだ。

私の場合はできる限り「良い」という言葉を使わないように心がけている。そういえば正義の味方を子供の頃から好きになれなかった。

正義の味方は悪者をやっつけるのだけれども、悪者の命は大切ではないのだろうか、とか、悪者が必ず負ける事がつまらなかった。

結局正義の味方は、私の味方ではなく正義の味方なのだろう。

「良い」とか「正義」という「悪」と闘う私は正義の味方から見ると「正義と闘う」=「悪」なので敵になるのだろう。こうなると全員が正義であり、全員が悪である。

だから「私は常に正義の男である」というのは嘘ではないし。

「あなたは常に悪者である」もまた嘘ではない。

「正義は勝つ!」は正義の見方の問題なのだろう。

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2008年2月13日 (水)

おじいちゃんじゃない

名前のせいだろう。

団塊の世代だと思われている方がいらっしゃるのだが、実はもっと若い。

老人だと思われるのは構わない。

老人になるのも構わない。

しかし死が近づくのが嫌なのだ。

学んでも学んでも、さらに自らの無知さだけが明らかになっていくような恐怖がある。

私の最後の日に不勉強を嘆くような事になるのが嫌なのだ。

死ねば無くなるのだから無知でも良いじゃないかと思われる方も居るでしょう。

死んでも無くなりはしないと私は思う。死と共に私の痕跡も全て消滅する訳ではない。多くの物が残るのだ。それを人生と呼ぶのだと思うから、出来る限り痕跡を残そうと羞恥心も含めて書きまくるのだ。

書いている間は少年でも、青年でも、老人でも無い。

私だ

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