書籍・雑誌

2009年8月 9日 (日)

大人は矛盾している

大人は矛盾している。

そう聞くと、大人に対する批判に聞こえるだろうか
それとも、ある事実を述べているように聞こえるだろうか。

私がココで言いたいのは
矛盾しているものを抱え続ける事が出来るのが大人であるということ。
矛盾を抱えきれずに、簡単に決着をつけるのは子供なのだ。
もちろん矛盾していれば皆、大人と言うのは倒錯した結論である。

善悪や環境問題、それ以外にも色々とあるのだけれど
矛盾せざるを得ないのだ。

例えばCO2と地球温暖化。
これらを正しいと信じるのも愚であり
これらを認めないと言うのも愚なのだ。

CO2が増加していて地球温暖化が進んでいる
その可能性は高い。
しかし、あくまで可能性が高いと言うレベルの話。
可能性が高いと言う事は
「全然違ってました。てへ」
って事もあると言う事。
だから信じないし、無視して良いという訳ではない。
可能性が高い以上は対応もしなければならない。
すなわち
1、地球温暖化すると困った事になる。
2、地球は温暖化している。
3、温暖化の原因は主にCO2である。
この3つは現時点で可能性が高い以上無視できないし
対策を採らなくてはいけない。
しかし、同時に3つが間違っているのではないかと思って居なければいけない。
間違っていると思うものを、とりあえず信じて対応する。
この矛盾が大人である。

私流に言うと、これを
「ハイブリッド」と呼ぶ。
地球温暖化防止しなくてはということと
地球温暖化は嘘であるということの
ハイブリッドである。
それは全く中途半端であり、無意味だと言うかもしれない。

ハイブリッド車(電気とガソリン)も
精々ガソリン車の2倍位の燃費だというだけで
べつにエコでもなんでもない低燃費な車だというだけである。
CO2を出さない車じゃないと意味が無い。
そう言う人もいる。
それは正しい。
しかし現実から離れてしまっている。
今出来る事は、脱ガソリンを謳いながら
ガソリンが無ければ走らないハイブリッド車という選択しか現実味が無い。

そうやって抜本的な解決が出来ず
問題を先送りすることでしか
現実的には物事を運転していく事ができない。

あぁ考えながら打っているから最初の意図と外れてしまった。
本当は
地球温暖化は悪い事だ!とか
地球は温暖化している!とか
温暖化はCO2が原因だ!と断言している人は
本当に環境については悩んでいないというつもりだった。
同じく
地球温暖化の何が悪い!とか
地球は温暖化していない!とか
温暖化の原因はCO2ではない!という人もいい加減だと言うつもりだった。

どちらも自然(地球環境)の事を解ったつもりで言っている
解ったつもりでなければ「こうだ」とは言えないはずだ。
だから私にとっては、どっちも同じなんだと言いたかった。

「自然の事はよくわからない」

これが正解である。
自然を舐めんなよ!!
そう言いたかったのだけれども、
なんだかグダグダになってしまった。
あーあぁ

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2009年8月 3日 (月)

30年

本日の朝日新聞に今更ベストセラー
「思考の整理学」の外山磁比古さんについて記事が乗っていた。
東大・京大で昨年一番読まれたらしく、そのことで講演されたそうです。
外山さんは本の中で
30年くらいの時間が流れないと作品の真の価値はわからない。
と書いている。
たまたま数日前にアップされた金沢経済新聞掲載のエリア特集にて
30年後に花開くビジョンを抱いて、地方都市をステージに種をまき、その芽を育む取り組みがある。
四緑園の中西さんが言っている。
これは偶然だろうか。
30年に根拠があるのかどうかは解らない。
しかし外山さんが出版されたのは1983年
2008年に最も読まれた(しかもその事で今年も読まれている)
その間25年。
遠いような、近いような未来が楽しみである。

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2009年8月 2日 (日)

無責任時代

「スタジオボイス」だけでなく「ARTiT」も休刊でしたか。
紙のメディアはドンドン減っている。
そしてweb版に切り替わっていく。
そんな雑誌が沢山でてきた。
完全にやめてしまうよりはマシな選択なのかもしれないが寂しい。

私はこれを高度経済成長期のようだが
無責任時代だと言いたくなる。
コストをかけず、校正がいい加減でもお手軽に修正ができ、締め切りも特別無いweb媒体。
そして買う方もお金を払うという行為で責任を取っていたのに、フリーで見るだけ。
しかもお家で、ちょっとパソコンを開くだけ。
みんな無責任になっていく。
それ以外に、ちょっと気になったので7月31日付け最初にあげた両誌の休刊にふれた小崎編集長の言葉を以下に貼っておく

「インターネットの時代に雑誌が担う役割とは?」という設問があり、僕は「両者は原理的には、もうほとんど変わらないと思います。強いて言えば、印刷媒体のほうが情報量が少なく、誤報の訂正がむずかしい。つまり、『(より大きな)責任』でしょうか。『紙にインク』という特性に根ざすデザインの優位は、いましばらくは続くかも」と答えた。

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2009年7月25日 (土)

漫画の日

「もやしもん」と「へうげもの」の新刊を買いに行って来た。
ついでに気になっていた中村光「聖おにいさん」をまとめて3刊買う。

もやしもんはドンドンうんちくっぽくなって、地ビールと大手ビールだとかを混ぜながらグローバリズムを連想させるような、なんというかシンプル族の聖典みたいになりつつあった。
それはそれで面白いけれど、にわか醗酵通やら、にわか農業通がいっぱい出てきて本当に気持ちが悪い。

へうげものは遂に利休死す。やっぱり明確な続き物は単行本で読んでいても先が知りたくなるね。

聖おにいさんは読んだ事も無いのに設定の良さに惹かれて衝動買いなのでドキドキだったけれども、変にキリスト教、仏教の神様がいっぱい出てきてキャラクター祭りとかキャラクター図鑑になっていなくて良かった。
結構、笑えました。買って正解

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2009年7月22日 (水)

私家版・ユダヤ文化論

内田先生の「私家版・ユダヤ文化論」を読む。
一番印象に残るのは(内田先生は残念でしょうが)ユダヤについてというよりは
ユダヤ人の考え方は時間が逆になっているということ。
この考えは割りと好きです。
あぁ幼児だらけのこの世界

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2009年7月 2日 (木)

緑のデザイン

「pen」7/15号の特集である。
Img_top090715

以下に目次の抜粋をサイトより引用する。
------------------------------------
30 アート・建築から都市ランキングまで
緑のデザイン
32 街に緑があふれたら、こんなに楽しい。
36 世界40都市の最新グリーン度ランキング
1位 オスロ ノルウェー
2位 ストックホルム スウェーデン
3位 パリ フランス
10位 コペンハーゲン デンマーク
42 | 鼎 談 | グリーンな都市が、未来の地球を救う。
石川幹子×村松 伸×岡部明子
46 緑を自在に操る、7人のクリエイター
東 信 *パトリック・ブラン *小林健二 *セレナ・デ・ラ・ヘイ *枡野俊明 *エドゥアール・フランソワ * 銅金裕司
60 世界の公共施設は、グリーンがいっぱい。
スワンナプーム国際空港 タイ・バンコク
アトーチャ駅 スペイン・マドリード
カリフォルニア科学アカデミー アメリカ・サンフランシスコ
68 庭園という空間がもつ、力強い存在感。
ベルリン・ユダヤ博物館/亡命者の庭 ドイツ・ベルリン
エデン・プロジェクト イギリス・コーンウォール
ディーク城/新しい庭 ドイツ・ユッヘン
-------------------------------

なんというか
言葉にならない。
これが世界の最先端なのか
とっても、つまらない世界だ。
そんな文句を言ってる時間があったら
働けってか?

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2009年2月23日 (月)

ほとんど引きこもった日曜日

現代アートのギャラリストとして有名な
小山登美夫著「現代アートビジネス」を読む。
まぁそんなに驚くほど新しいことは無くて
すごく正論なアートマーケットを作ろうという想いがわかる。

その中で日本のアートには「批評」が足りないというフレーズを読んで思い出した人物が二人居る。
一人はアート情報サイト「芸力」を運営する竹本さん
もう一人は「金澤アートイベントカレンダーイコール」を発行する中西さんだ。
両氏は自分の気に入っている作家の展示に出かけて
この作品はこの見せ方は違うとか
この作品って、中途半端だとか
やりたい本音を隠してるんじゃないのか
と、ほとんどクレーマーのようにイチャモン
もとい批評をして歩いているらしい。大したもんだ。

批評はとても大変な事である。
批評する側はとても危険を伴い
それにも関わらず利益はない。
ハイリスク、ノーリターンだ。
それでは批評する人なんて増えないに決まっている。

新書になってベストセラーになれば多くの人の目に触れる。
色々な方法をミックスして現代アートを普及するのは効果的だろう。
問題もあろう。しかし小山氏は上手いと思う。

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2009年2月11日 (水)

いざニーチェ

春になって気力が充実してきたので
恐ろしくて手をつけていなかった
ニーチェの「善悪の彼岸」を読み始める。
やはり半端でなく難しい。
ニーチェ以前の哲学を簡単だとは言わない。
しかしニーチェ以降の哲学は
その難しさのレベルが
ドーン
と上がるように感じる。
こんなものを多くの人が読み
理解しているのかと思うと
自分の理解力の低さに歯軋りし
もっと学ばなくてはいけないことを痛感する。
そうはいっても
日常の諸事情が私の時間を奪うし
落ち着いて読もうとする時間には
睡魔がやってくる。
いつ読み終えるのだろう・・・

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2009年2月 8日 (日)

だから愛なんだって

10代のころ「愛」とか「やる気」「情熱」
なんて言う人は大嫌いだった。
戦時中の教育かよ・・・
だったら愛国心と竹ヤリで戦闘機と戦えってんだ。
それが10年経って、現在
全ては「愛だ」って言い出した。
我ながら解らないものである。

なぜか?
それは
仕事でも
趣味でも
友人関係でも
恋愛関係でも
どのような人・物・事との関係でも
続けていくと必ずトラブルや問題が発生する。
トラブルまで行かなくても、より良くしていこうと思えば
悩まされるに違いない。
どうしたら良いか考える。
悩むことと考えることは同じことだ。

だから全てのことは
そんなに割り切れず
善とか悪とか言えず
真とも偽とも言えないから
延々と悩み続ける・考え続ける他にない。
悩むことは苦しいことである。
出来ればやめてしまいたい。
だから、どこかで解ったことにして打ち切りにしたり
そもそも関係を終わらせてしまったりする。

そんな苦しい関係性を維持しようとする
いつも嫌な思いをして
愚痴って
怒って
嫌って
泣いて
喚いて
憎んで
叫んで
時に目をそらして
忘れようとしてみたりもして
逃れようとしたりもする。
それでもやめない
もしくは
やめることができない

それは何ゆえか

愛としか呼べない。

愛するものを
嫌うことも
憎むことも
時に無視することさえも
愛の一面なのだ。

やめる決断をすることさえも
最高に濃い愛だと思うし
やめた後でさえ
いつか、思いを振り切れず戻ってくるかもしれない
そんな可能性がある限り
すなわち
死が人生を強制終了する瞬間まで
愛なんだと思う。

そんな愛に溢れた関係性の中で生まれた作品(物?人?事?)に私は感動する。

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2009年2月 4日 (水)

LOVE is ALL

どんなことも

どんなものも

喜びよりも

圧倒的に苦しみが多い

それと戦うのは

愛が全てだし

愛しか方法も思いつかない。

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2009年1月17日 (土)

ブルータス大学入学

ブルータスという雑誌で学問?の特集
「ブルータス大学開講」というのにとても興味が沸いて読んでみた。
内容は・・・・・
ほとんどがつまらない。
まぁブルータス編集部の実力が足りないから、と言ってしまえば
それで終わるのだろうけれども
(お金を払って買っているのだから酷評する権利も私にはある)
なぜ「つまらない」と感じたのかを少し考えてみたい。

ひとつには
本当の学問ではなく、大学が奇をてらった
テレビなどのメディアで有名な人を
学校の経営戦略上、先生として招いていた
そういう人にだけスポットを当てている。
すなわち
元々学問人ではなく、どちらかというとタレントっぽい人だからだろう
そこで最初の期待と食い違った。

ふたつめ
一つ一つが短い。
もう少し掘り下げれば面白くなりそうでも
文庫本などとちがい、紙面が少ないので
触りで終り。
雑誌で興味を持ってもらって
あとは自分で調べてください
それが雑誌の役割と言えば、そうなのかもしれない。

しかし
個人的に資料として、いつまでも置いておく雑誌が多い
いみじくも、いとうせいこうさんのページで書いてある
16時間分の情報を30秒にまで圧縮する。
それが感じられない。

元の素材の密度が低すぎたのか
編集で受け取り損ねたのか
そもそも選択した人が悪かったのか
高校生か、大学生が読むレベルでした。

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2009年1月11日 (日)

悩む力

姜尚中「悩む力」を読み終える。
んー、正直に言うと
「そうそう」という共感も多いけど
それ以上に
「そうしてます」
という感じ。
自分は記憶力があまりよく無いと思っている。
だから過去というのが簡単に揺らいでしまう。
一生懸命だったつもり
必死だったつもり
ではあるが
「つもり」
になってしまう。
だから常にフルパワーでする。
そうすると過去にも自信が持てる。
今の自信は過去によって支えられている。
常にフルパワーで生きることが
過去の自信を担保し
過去の自信が
今の自信を担保してくれる。
結構幸せです。

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2008年12月23日 (火)

「呪」と「祝」

『大人のいない国』(鷲田清一,内田樹)を読む。
鷲田氏、内田氏共に平成のスーパー売れっ子哲学者なので、面白いのは言うまでも無く、さらに二人がセットという組み合わせはお得というか美味しい一冊。
バランスはやや内田側が多かったかなという心象を受けた。
ブログなど読んでいるので、新しいことは少なく感じたが、呪いと祝いのことについて書かれた部分は面白かった。
同じ言葉・情報でも
発信者不明=呪い=批判
発信者明確=祝い=批評
といった図式(すんごく簡単に言うと)を見て、自分がWEB2.0やBBSに対して感じていた疑問?疑念?信頼できない感じが良くわかった。
これについてはネットの信頼について書いた記事での信頼は個人にしか帰属しないという考えとリンクしていてスッキリとした。

そして呪いが破られる(発信者が明らかにされる)と呪いは跳ね返ると言うが、何でだ?と思っていた長年の疑問も解消した。
安全な場所からコソコソと人を貶めるような事を画策していた人物は、それがバレたら、その人は信頼を失う。
さらに信頼を失った人の発言は過去を遡ってまで無効になり、狙われていた人物へのダメージも多少なりとも回復するに決まっているではないか。
魔法の様だが、我々は過去を書き換える力を持っている証拠でもある。

陰陽師が廃れても、哲学者が消えないのはこんな事からかもしれないなぁ

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2008年12月 7日 (日)

積読消化しなきゃ

積読をちょっとだけ崩そうと雑誌・ムックなど読みやすいものから消化中。
ここのところはブルータス・杉本博司をはじめとした杉本関係を読破。
それからソトコト新書のロハスの思考(福岡伸一)を読み始める。
福岡さんは素晴らしい作家であり、現在出版すれば売れるという出版界のスターでもある。
読後感想は後日ということで、読み始めの感想。
個人的にソトコトが普及した「ロハス」という言葉に抵抗を感じているので、最初から好意的ではないと言う点も加味して読んでいただければと思う。
福岡さんの文章は素晴らしい。
着眼点も問題ない。
しかし出版社側の不手際が目に付いて読みにくい。
例えば数字が半角だったり、全角だったり。
それは横文字のブログであれば、それほど気にならないだろう。
しかし縦書きに組みなおした場合、半角は字が横に倒れてしまう。
それから「-」なんと呼べばいいのだろう棒と「ー」伸ばす棒がごっちゃになっている。
しかもハイフンの方の半角全角の問題だろうか無茶苦茶である。
タイトル|サブタイトルー
となっていたらなんじゃこの棒?しかも「さぶたいとるー」ってなんだ?と、そこまで思わないが読みにくいのは確実だ。
もちろん福岡さんも著者として校正する責任はあるだろう。
しかし忙しい方でもあるし、そんな些細なことは編集部がみるべきだろう。
木楽舎のレベルが低いことは別に興味ない。
それよりも今回感じたのは携帯小説などからもわかるように、若い世代で「縦書き」に不慣れな人が増えていくのではないのかということ。
そして益々、機械に頼る人が増えていくのではないのか。
さらには読む人が気持ちよく読むための配慮・想像力・思いやりが減少していっている。
世の中は
「はい文章はいいですね。」と読みやすさまでの配慮は無く、じゃ文庫本用に横書きを縦書きに変換しましょうとパッと機械に頼り、縦状態での校正はおざなり、もしくは縦書きに不慣れなためチェック能力が乏しく、そのまま印刷されていく。
そんな印刷物が、出版社からはそんなに出ることはないと思うが、同人誌的なものや、企業、学校、地域の配布物では増えていくのではないかと感じたのである。

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2008年11月 3日 (月)

理性の限界

高橋昌一郎著「理性の限界」を読む。
面白い。内容が面白いだけではなくて、読ませ方も面白い。
アロウの不可能性定理・ハイゼンベルクの不確定性原理・ゲーデルの不完全性定理。
これらに付け加えて、凄まじい数の天才の名前と理論が踊る。
それなのに解りやすい。
そしてファイヤアーベントの方法論的虚無なんか「キター!」としか表現できない思いを湧きおこさせる。
私としては全部一緒だと思ってたことが、きちんと整理されていて、読み進めるほどに感激する。
ここに作品はなんでもいいのだという、デュシャンのアートが加われば本当に私の言いたい事を全て言ってくれた!!と思うしかない。
近年において最大級の評価できる新書である。

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2008年8月24日 (日)

環境問題は嘘と偽善

久しぶりにゆっくりと書店へ言ってきた。

そしたら驚く事に(特に新書のあたり)「アンチエコ」的な環境問題は嘘だとか偽善だとか、マーケティングだとか、科学者のほとんどはCO2容疑者説を疑っているだとか、温暖化はそもそもないとか、温暖化しても問題ないとか、本当に色んな書籍が出ているのに驚いた。

一時世論がある方向へ流れると、その真逆へ行く事が目立ち、書店で売れるという目的であれば目立つ事はプラス、それはまさに流行に乗っかっているという事だ。

結局アンチエコ的な書籍も含めて「エコ関連」だと言ってしまうと、エコ関係はさらに勢力拡大していると言えよう。

当ブログは解りにくいとは思うが、エコロジー活動へのアンチではなく、参加しないという事。本当は不戦ではなく、非戦なのだ(と言いつつたまにアンチ的なことも言ってるが)。

そしてもう一つがエコノミー。ありとあらゆる業界にマーケティング=金儲けの仕組みが入り込んでいる。文学、アート、宗教、映画、個人の趣味、、、、セックスは元々産業と近かったし、出産も葬式、墓場もとなれば生まれる前から、死んだ後までビジネスの種だらけだ。

しかし映画や文学などアートを例に話すと、売れないと次の作品が作れないから、売る事も考えなくてはいけない。そして沢山売れれば、沢山の作品を世に送る=残す事もでき、さらに大きな仕事の可能性も高まる。だから売る事は大切だ。ビジネスはそうやって「使う」ものだと思う。しかし人は度々、手段と方法を見誤る。

良い作品を作り、沢山残すための手段であったビジネスに、作品自身が引っ張られてしまうのだ。

エコも又然りで、環境(全体)のためにという善意が、物の評価基準を曲げて、本来するべき仕事を曲げたりする。

エコノミーやエコロジーが判断の軸になっていませんか?

この二つは大事そうな振りをしていて、中心に据えてはいけない2大基準だと思っている。

二つのエコをこれ以上自分の判断を歪ませるほど、入ってくるなという視点が必要ではないだろうか。

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2008年8月18日 (月)

本物

本物と普通とでも言おうか。

「闘うデザイナー」だとか「闘う料理人」だとか「闘う○○」という風に言う人が居るが、私はこれに違和感を覚える。闘っていない人なんて居るんですか?

公務員は全員闘っていない。主婦もなにとも闘っていない、ホームレスも闘っていない。そういう事なのか。

いや僕の言う「闘う」は違うんですよ!と言われても闘い方だって、闘う対象だって人によって違う。だから「闘う」と言う言葉が人と違うなんていうのは、当たり前である。それを限定するなら「施主と闘う建築家」とか限定するべきだ。

生きている人間は全員闘っている。自分と、老いと、社会と、、、、、だから「闘う」なんて言葉を付ける必要は無い。闘うということは本当はもっと静かで、辛く、苦しい葛藤のようなものだ。それを言葉にする=客観化して、さらに他社に共有してもらおうと名乗るなんてありえない。「闘っている自分の理想像」に酔っているだけか、闘っていない自分を恥じて、それを隠蔽するのに必死なのかと勘ぐってしまう。

昨日、ある女性の画家さんとお話をした。よく金沢城でスケッチをしているというので、私は安易にも「それじゃ金沢城の植物展とかそお言うテーマで個展をしたらいいんじゃないですか」と言ってしまった。

それに対する彼女の答えは「NO」。

そうすれば「地元の事を愛しているいい人」だとか「郷土ネタとしてメディアも扱いやすい」だとかメリットは山ほどある。しかし彼女は自分の絵を見てほしいと言う。絵で勝負するのだという。

私は感動してしまった。

最近は「地産地消」だとか「郷土野菜(石川では加賀野菜)」、他にも仲間になるのは「ロハス」「エコ」「食育」など。そういった言葉を武器にして闘うやからが多い。

まるで流行に乗っかり、実力よりもそういった二次的なものが主役なような振る舞い。

画家は絵で勝負する。料理人は味で勝負する。

そういった本来の姿が失われているように思う。もちろんそんなつもりは無くて「絵」プラス○○、「味」プラス○○でしていたのが段々ウエイトの置き場所が歪んでしまい、本末転倒する。だから彼らは自信を持って、疑いも無く自分を本物であると考えている。

だから全員が本物かと言えば、そうではないのは自明であろう。

画家の実力は郷土愛の深さと別に観なくてはいけない。

画家は郷土を描くから取材されるのではなく、絵の良さを取材されるべきである。

「地元野菜を使った○○」とか「本物の○○」とか「闘う○○」とかは、本質的な実力や作ったものの素晴らしさを消し飛ばすくらいに人間としての卑しさが滲み出ている。

ビジネスだから仕方が無い?

仕方ないという言葉は妥協したということであろう。それをもって「闘う○○」と言う無かれ。

ビジネスをするのは良い。儲ける商いも良い。しかし「何が悪い」と堂々と言うほど偉いものでもない。

尊敬できる大人が少ないものだ。

本物/ホンモノとは

偽物/偽者とは

普通/それ以外とは

あなたはどうやって生きていくのか。

私はホンモノだろうか。

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2008年6月14日 (土)

B型自分の説明書!?

B型自分の説明書」という本がベストセラーだそうです。人気過ぎてA型、AB型も発売されたそう。基本的にゲームか遊び感覚でやっている間は良いと言うけれど、、、個人的に只の話題と嫌ってはいないし、面白いと思うと断った上で考えて欲しい。

一時期、血液型占いなどでイジメや偏見が広がるとテレビなどで加熱しかかったブームが禁止(?)されたのをもう忘れてしまったのかと思う。

どれほど遊びだと思っても、こういったものは無意識に蓄積され、記憶の編集がなされた時に真偽や噂などは混ざってしまう。

こういった類の本を読むことで、ものを見る目が歪むことを自覚したほうが良い。人はそうやって知識を得るほどにレンズが歪んで、真実から遠ざかるのだ。

自分で自分の目玉をえぐる人は居ないだろう。それは言い過ぎだろうが、例えばシンバルの音だけが聞こえなくなる病気があったとしよう。シンバルの音なんて聞こえなくても困ることは、ほとんど無いだろう。それでもあなたの世界は気づけないくらい少しだけ貧しくなる。

こういった本を読むと顕著に、そうでなくても知識を得るということは、あなたに偏見を与える。

それに苦しむレベルにまで到達していないならば、あなたは既に狂いきっているか、全く学んでいないか、よほど鈍感かの3つに1つだ

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2008年6月 4日 (水)

絶対待つ

鷲田清一「待つということ」を読む。

そして平行して読んでいたフォアビギナーズ「西田幾多郎」も読み終わる。

どちらも哲学の本なので時間がかかった。しかしどちらも面白かった。

ある事柄があって、それをぐるっと内包する概念がある。だけれども、それだって何かに内包されている。そしてさらにそれさえも内包する別の何かがある。しかもそれは前の段階で内包済みの小さいカテゴリだったりしてパラドックスのようなことになる。

それを延々と追いかけているという感じだ。待つということでは全てを「待つ」に結びつけながら、待っていると言う時は何かを待っては居ないといい、しかし待つというような待つのカテゴリーがマーブルのように広がる。

西田にしても「無」について、「無」と言っても「無」があるわけだから、それさえもない「絶対無」を仮定して話を進める。それはあくまで仮定の話で「絶対無」なんてありえるのかは、現実としては難しい。では2冊を平行して読んだ感想として「絶対待機」というものも考えてみたらどうなるのだろうか。

それは待つこと自身が目的かつ方法となるということなのだろうか。だとすると絶対待機というのは宗教のようなものか(と言ったら宗教家は怒るのだろうか)

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2008年4月24日 (木)

たんば色の覚書

辺見庸「たんば色の覚書」を読みました。

毎週一冊を目標にして読書計画を立てたのに、やっと一冊です(笑)

あるギャラリーのギャラリストに、ありとあらゆるものが経済活動に飲み込まれる事に抵抗を感じていると話をしたときに薦めてくれたのだ。

普段おぼろげに感じていた「死刑」を中心とした社会の冷酷さ。

市場が人の心も人生も買ってしまうのが当然の世の中。

まぁ短い言葉にすると大事な要素が沢山落っこちてしまうので、これでは何も伝わらないかもしれないけれど、自分がここにいる事への罪悪感のようなものを感じている私は、あぁ、そうだなと理解したような気がした。もちろん私の感覚は朧げであり、辺見氏のように「なにか」はっきりとした出来事があり、その深さには大きな差があるのではあるだろうが。

タイムリーにフラッシュバックして驚いたのは、月曜の記事に書いたばかりの「想像力の代償は恐怖なのか、安心なのか」という事についても触れられており、確定死刑囚が死刑の直前に感じる恐怖は、想像力が大きい方が強いというような言葉には驚いた。

本との出会いには運命があるようにおもう。

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2008年4月19日 (土)

本屋で「おっ!」

Pd10

本屋をウロウロしていて「おっ!」と目が留まる。

「デザインという名の、セールスプロモーション。」(+DESIGNING)というキャッチが見えたのだ。

先日の記事にて、デザイナーは必要かどうかではなく欲しいものを作り、資源を消費してゴミを作る。と書いていたり、普段から「デザインは過剰」であると言っていたので「おっ!」と来たのだろう。

もちろんデザイン誌では「セールスプロモーション」は善であり、セールスプロモーションになりますよというセールスプロモーションをしたら良いですよ。というセールスプロモーションでもある。

デザインの力?性能?については同じように着目したのだが、着地点は随分違う。

環世界が違うんだなと感じ、デザイナーをしている人間なんて地獄行きだろうな。とか考えたりする。地獄へ行く覚悟までして働いているのだから、尊敬され、カッコイイと思われるのも当たり前だなとデザイナーの方々への敗北宣言として本日はまとめようと思います。

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神農の言葉

今日現在「環境ブログ」とgoogleで検索すると約 774,000 件ヒットする。

「環境」だけの場合は約 4,360,000 件ヒット。そこで知らなかったのだが鳥取環境大学人間環境大学なる大学まであるのには驚いた。

「環境ビジネス」で検索すると約 751,000 件、「ビジネス」だけで検索すると約 4,770,000 件であるからネット情報ではビジネス全体の15.7%が環境ビジネスになってしまう計算になる。

環境とビジネスは対立する(しないものも稀にあるが、稀過ぎるので無いと言う表現を使っても間違いではない)。それなのに、このありさま。持続可能(サスティナブル)なんて厳密に言い始めたら絶対不可能なのに(太陽でさえ永遠じゃないんだよ、諸行無常)ロハスだとかサスティナブルな○○だとかが氾濫する。

環境意識が高い人(俗にグリーンコーンシューマーと言うらしい)や、サスティナブル好きな人が全員「馬鹿」、もしくは「勉強していない」か「人を疑うことを知らない純粋無垢」と言い切ってしまえば問題が解決するのだけれども、そんな事はないと思っている。

紙の偽装のように「エコ偽装」「環境偽装」がドンドン推進される(例えば屋上緑化はエコというのは明らかな間違い。それでもエコだといって推進されている)。

資本主義のマーケットや、神の見えざる手、需給バランスだとかで世の中は良い方向へ行くというのは(経済学でも例外もあるし、そのための金融政策だとか、そおいうことも理解したうえで市場原理主義的なことを言う人がいるので)間違いだと思う。

環境の理解なんて出来るわけないのに、環境をどうかしようという不可解な動き。

少女売春(約 1,770,000 件)援助交際(約 3,310,000 件)やら不倫(約 1,030,000 件)やら、誘拐やらの温床「出会い」を検索しても約 1,090,000 件。その4.3倍のヒットを記録する「環境」。社会を破壊するのは経済であり、その経済システムをもって環境対策をしようというのは難しいのではないか。

封仙娘追宝録』(ろくごまるに著・富士見ファンタジア文庫)という本を少年期に読んだのを今、思い出す。ストーリーは「仙界にて修行中の仙人・和穂は、小さなミスから、封じ込められていた宝貝(魔法の道具のような物)を人間界に落としてしまう。様々な欠陥のため封じていた宝貝はその数、なんと726個。和穂は宝貝回収の旅に出る。中華風異世界ファンタジー」(はてなより抜粋+α)

その中で仙人の開祖:神農は人間界に影響を与えたなんてものじゃなく、全く異質のものに変容させたと言うような事を言う。だったら何故回収するなりなんなり対応しないのかと主人公:和穂は言うのだが、それに対して神農は駄目だという。

その理由が環境問題のような話。宝貝を回収しようと人間界に仙人が出て行くと、なお一層の混乱を起こし被害を拡大させる。最善の方法は「対応しないこと」だと言うのだ。

すごい仙術を使う仙人でさえ、人間界を救う力も無いという無力感が書かれている。

それでも仙人は自分たちの無力さを知っているだけ賢い。

21世紀の人類には環境問題を解決しようと言う輩まで居るのだから。

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2008年4月14日 (月)

推薦書

池田清彦・養老孟子「ほんとうの環境問題」(新潮社)を読みました。

正直、初めて知ることも無く、私にとって新しい考え・視点など一切無かった。

しかし私自身が常に言っているマクロな視点だったり、それは誰にとって都合よく編集された情報か。といった事が、いくつもまとめられていて、闇雲にエコを叫ぶ人々に届けたい良書である。私なんかが声を大にしても「おかしい人」ですまされたり、その場で反論を受けて話をさせてもらえなかったりと苦労しているが、さすがに著者の両氏に文句を言うものもいないし(物理的に言えないだけだとしても)、多くの人に影響を与えるのに、この本の普及を目指します。

私は基本的に「性善説」を信じています。悪いと思いながらも、悪事をしなくてはいけないというのは余程のことで、普通は悪事をしたいという人は少ないだろう。

だから通常は「善意の悪事」だと思っている。

なぜそのような事が発生するのか。それこそが無知(知識不足、妄信、想像力の欠如、知るための努力不足など)だと思う。

エコは典型的な善意の悪事だと思っている。だからこそNO MORE ECOである。

「善意までは否定しない。しかしやっていることが悪事である以上は止めたい」というのに苦労している。「悪意の悪事」を止めるのよりも厄介である。

「勉強はしない良い人というものは存在しない」と断言するしかないのが私の立場です。

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2008年3月16日 (日)

Mr.sato you too!

体調不良のため、今日は読書デーとなりました。私は「積ん読(つんどく)派」の人間なので本棚にある未読の一群から、その日の気分でチョイスする。

その中で佐藤雅彦氏の「毎月新聞」を読んでいて「あなたもそう思っていましたか!」と仲間を見つけた喜びを感じた。以下抜粋

「なんとか反グローバリゼーションをテロとかの形ではなく、しかも、情緒に訴えるのでもなく、正しく行う方法はないのだろうか。こう言う間にも均質化の波は世界中津々浦々にまで押し寄せている。」

その感動の次の瞬間、あぁこうやって忘れてしまうんだとも思った。

私は私が興味のある事柄や、考え方に大きく共感する。

こうやって本を読んでいても、自分が共感できるところは強い印象によって記憶されるが、それ以外の部分は記憶しきれず、零れ落ちていく。

皆さんはテープ起しをした事があるだろうか?私は大人になって初めてテープ起こしをしたとき大いに驚いた。

え?こんなこと言ってた??

というような聴いた記憶の無い言葉があるのだ。

テープ起しをするのは大概がインタビューの内容である。だから相当に真剣に聞いていたし、気が緩んでいる瞬間など無い。それでも覚えていないのだ。

それは、自分にとって「これだ!」という言葉をキャッチしたとき、どちらかと言えば自分にとって興味の薄い(内容の重さとは別)ものは記憶しきれないと言うことなのだ。

そうやって思考が一周したところで佐藤氏の著書をもう一度見る。

先ほど「あなたもそう思っていましたか!」と感じたものも、自分にとって重なっていると思った部分だけを見て喜んで、その前後は重なってなければ、僕の「そう思っている」と佐藤氏の「そう思っている」は全く同じである訳がないと冷めてしまう。

だから孤独で、寂しいから、それを忘れようと何かに没頭しようとするのだと思う。

その没頭が一人の趣味であれば問題がないのだが、しばしばそれを団体で行おうとする。価値観を一つにする。

宗教、サッカー、市民団体の活動、エコ、オリンピック、民主主義と資本主義、流行・・・

価値観を一つにする。それを言い換えるとグローバリゼーションだったり、均質化なのではないか。

私のブログがメジャーにならないでいるのは悪いことではない。

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2008年2月23日 (土)

書店の品格

友人のオフィスの近くに書店がオープンした。

毎月読めない量の書籍を購入するような本/書店好きなので早速覗いてみてガックリした。

個人的に興味のある「哲学」のブースがまず無いのだ。

そして雑誌のスペースが最も広く、新書のスペースも広くは無い。何より取り揃えが「ベストセラー」と言われるものや、新聞や雑誌の書評で見たことのあるもののオンパレード。

書店の楽しみには知らない本との出合いという点があると思っている。だから書店・本屋に行くと、そこの店の個性が出ているから楽しい。それが無い店では店員の知性もセンスも感じ取れない。経営的視点(資本主義的メカニズム)では売れ筋として並べたのかもしれないが、ランキングで自動集計されるようならアマゾンの方がずっと進んでいるのに。

哲学のコーナーが無いのは、哲学の無い証明なのかもしれない。

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