文化・芸術

2009年8月 9日 (日)

大人は矛盾している

大人は矛盾している。

そう聞くと、大人に対する批判に聞こえるだろうか
それとも、ある事実を述べているように聞こえるだろうか。

私がココで言いたいのは
矛盾しているものを抱え続ける事が出来るのが大人であるということ。
矛盾を抱えきれずに、簡単に決着をつけるのは子供なのだ。
もちろん矛盾していれば皆、大人と言うのは倒錯した結論である。

善悪や環境問題、それ以外にも色々とあるのだけれど
矛盾せざるを得ないのだ。

例えばCO2と地球温暖化。
これらを正しいと信じるのも愚であり
これらを認めないと言うのも愚なのだ。

CO2が増加していて地球温暖化が進んでいる
その可能性は高い。
しかし、あくまで可能性が高いと言うレベルの話。
可能性が高いと言う事は
「全然違ってました。てへ」
って事もあると言う事。
だから信じないし、無視して良いという訳ではない。
可能性が高い以上は対応もしなければならない。
すなわち
1、地球温暖化すると困った事になる。
2、地球は温暖化している。
3、温暖化の原因は主にCO2である。
この3つは現時点で可能性が高い以上無視できないし
対策を採らなくてはいけない。
しかし、同時に3つが間違っているのではないかと思って居なければいけない。
間違っていると思うものを、とりあえず信じて対応する。
この矛盾が大人である。

私流に言うと、これを
「ハイブリッド」と呼ぶ。
地球温暖化防止しなくてはということと
地球温暖化は嘘であるということの
ハイブリッドである。
それは全く中途半端であり、無意味だと言うかもしれない。

ハイブリッド車(電気とガソリン)も
精々ガソリン車の2倍位の燃費だというだけで
べつにエコでもなんでもない低燃費な車だというだけである。
CO2を出さない車じゃないと意味が無い。
そう言う人もいる。
それは正しい。
しかし現実から離れてしまっている。
今出来る事は、脱ガソリンを謳いながら
ガソリンが無ければ走らないハイブリッド車という選択しか現実味が無い。

そうやって抜本的な解決が出来ず
問題を先送りすることでしか
現実的には物事を運転していく事ができない。

あぁ考えながら打っているから最初の意図と外れてしまった。
本当は
地球温暖化は悪い事だ!とか
地球は温暖化している!とか
温暖化はCO2が原因だ!と断言している人は
本当に環境については悩んでいないというつもりだった。
同じく
地球温暖化の何が悪い!とか
地球は温暖化していない!とか
温暖化の原因はCO2ではない!という人もいい加減だと言うつもりだった。

どちらも自然(地球環境)の事を解ったつもりで言っている
解ったつもりでなければ「こうだ」とは言えないはずだ。
だから私にとっては、どっちも同じなんだと言いたかった。

「自然の事はよくわからない」

これが正解である。
自然を舐めんなよ!!
そう言いたかったのだけれども、
なんだかグダグダになってしまった。
あーあぁ

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2009年6月10日 (水)

水割りニッポン

「水割りニッポン」
この言葉に、とても今の時代を感じた。
たまたま人のところでフローリスト1月号掲載の谷口正和の「時代ウオッチング」という記事で見かけたものだ。
簡単につまむと、日系流通新聞の調査によると20代は30~44歳世代よりも和風志向だということ。
しかし、その日本文化をそのまま取り込むのではなく、あたかも濃い日本文化の原酒を水で割ったように薄めて取り込んでいる。
それは今の生活になじみやすいという事と、堅苦しい「型」を嫌い、何年も学び続けるという手順を好まないからだろう。
だから書道の基本がなってなくても「味のある字」などと言ったり
作って数ヶ月の松でさえ「盆栽」となり
抹茶を飲むことは、全て「茶道」気分になるのだろう。
精神や、その歴史という部分を抜いてしまうと、とても文化としては貧しいのだけれども
けれども、そこには自分たちにマッチする空気感・雰囲気は確かにある。

茶道、書道、華道、武道など「道」を究めようということではなく
一生掛けて続けるとか
終りが無いとか
そんな長さではなく
楽しいだけで良いんじゃないかなぁ。
そこからしか道へ進もうとする人は居ないんじゃないだろうか。

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2009年5月31日 (日)

植物のうつわ-金澤

G-WING'Sギャラリーで開催中の「植物のうつわ~コントラスト展~」へ行ってきた。
その前に行われたコラボレーション展での小林健二さんの景色盆栽も少し置いてあった。
景色盆栽は良いですね。
本当の盆栽は難しそうだけど、そういった事を置いておいて楽しめそうである。
そして現在やっているコントラスト展の篠原さんの珠洲焼は、もちろん渋くてよい。
注目は上出さんがどんな作品を作ったのかと言うところ。
植木鉢、植木鋏、活力財のアンプル、ポットドール。
どれも良い。
はずし方が上手い。
とってもオシャレである。
そして、どれもキチンと植物が植えられていて機能性も備えているのがすごい。

この企画が雑誌「金澤」の今月号で取り上げられていて、その記事を拝見したのだが、その見出しが上手い。

「うつわ」という言葉に含まれる
「楽しむ」という精神を表現する。

流石北陸トップクオリティの雑誌「金澤」である。
編集部に実力があるということが解る。
コピーライティングも仕事の一つである私も頑張ろう

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2009年3月31日 (火)

無が好きな日本人に最適の趣味

まわりを見ると、趣味が花盛りだ。
手芸、山歩き、ガーデニング、パソコン、料理、スポーツ、ペットの飼育や訓練など、ありとあらゆる趣味の情報が愛好者向けに、また初心者向けに紹介される。
趣味が悪いわけではない。だが基本的に趣味は老人のものだ。
好きで好きでたまらない何かに没頭する子どもや若者は、いずれ自然にプロを目指すだろう。

老人はいい意味でも悪い意味でも既得権益を持っている。
獲得してきた知識や技術、それに資産や人的ネットワークなどで、彼らは自然にそれらを守ろうとする。
だから自分の世界を意図的に、また無謀に拡大して不慣れな環境や他者と遭遇することを避ける傾向がある。

わたしは趣味を持っていない。
小説はもちろん、映画制作も、キューバ音楽のプロデュースも、メールマガジンの編集発行も、金銭のやりとりや契約や批判が発生する「仕事」だ。
息抜きとしては、犬と散歩したり、スポーツジムで泳いだり、海外のリゾートのプールサイドで読書したりスパで疲れを取ったりするが、とても趣味とは言えない。

現在まわりに溢れている「趣味」は、必ずその人が属す共同体の内部にあり、洗練されていて、極めて安全なものだ。考え方や生き方をリアルに考え直し、ときには変えてしまうというようなものではない。
だから趣味の世界には、自分を脅かすものがない代わりに、人生を揺るがすような出会いも発見もない。
心を震わせ、精神をエクスパンドするような、失望も歓喜も興奮もない。
真の達成感や充実感は、多大なコストとリスクと危機感を伴った作業の中にあり、常に失意や絶望と隣り合わせに存在している。

つまり、それらはわたしたちの「仕事」の中にしかない。


以上は村上龍さんの上梓された「無趣味のすすめ」のコメントである。
この中で特に気になったところに線を引いた。
村上さんは仕事を金銭のやりとりや契約や批判が発生するものと定義している。
この定義は中々に良い。
特に「批判」が発生するものは仕事なのだ。
ここでひとつ気になった。
なぜ批評ではなく批判という言葉を選んだのであろう。
批判と批評について再確認してみた。

批評;
事物の善悪・優劣・是非などについて考え、評価すること。

批判;
1)物事の可否に検討を加え、評価・判定すること。
2)誤っている点やよくない点を指摘し、あげつらうこと。
3)〔哲〕人間の知識や思想・行為などについて、その意味内容の成立する基礎を把握することにより、その起源・妥当性・限界などを明らかにすること。

解るようで解らない。
私が批判を使用する場合はどうしても2のニュアンスに引きずられてしまう。
批評よりも批判のほうが厳しい感じがする。
それ以上のことは、なんとも言えない。無力・・・
厳しい意見にさらされる危険があるかどうかという風に理解しておけばいいのだろうか。
ただ評価されるだけならば趣味の世界も評価はされるからであろうか。
このあたり、きっちり解るように誰か説明してほしい。

どちらにせよ私の中の仕事の定義が更新された。

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2009年3月 3日 (火)

なかなか良かった

ガレリアポンテで開かれている
小泉拓郎 展 Sculpture Exhibition
「地ニ還ル」 "it returns to the ground"
を見た。中々に面白い作品である。
繊細で壊れそうな彫刻というのはあんまりない。
それから今日(日付的には既に昨日)は
金沢美大の卒業式だった。
これから独立行政法人となっていく大学自身も
卒業生も
中々に大変だろうが頑張ってください。

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2009年2月 8日 (日)

だから愛なんだって

10代のころ「愛」とか「やる気」「情熱」
なんて言う人は大嫌いだった。
戦時中の教育かよ・・・
だったら愛国心と竹ヤリで戦闘機と戦えってんだ。
それが10年経って、現在
全ては「愛だ」って言い出した。
我ながら解らないものである。

なぜか?
それは
仕事でも
趣味でも
友人関係でも
恋愛関係でも
どのような人・物・事との関係でも
続けていくと必ずトラブルや問題が発生する。
トラブルまで行かなくても、より良くしていこうと思えば
悩まされるに違いない。
どうしたら良いか考える。
悩むことと考えることは同じことだ。

だから全てのことは
そんなに割り切れず
善とか悪とか言えず
真とも偽とも言えないから
延々と悩み続ける・考え続ける他にない。
悩むことは苦しいことである。
出来ればやめてしまいたい。
だから、どこかで解ったことにして打ち切りにしたり
そもそも関係を終わらせてしまったりする。

そんな苦しい関係性を維持しようとする
いつも嫌な思いをして
愚痴って
怒って
嫌って
泣いて
喚いて
憎んで
叫んで
時に目をそらして
忘れようとしてみたりもして
逃れようとしたりもする。
それでもやめない
もしくは
やめることができない

それは何ゆえか

愛としか呼べない。

愛するものを
嫌うことも
憎むことも
時に無視することさえも
愛の一面なのだ。

やめる決断をすることさえも
最高に濃い愛だと思うし
やめた後でさえ
いつか、思いを振り切れず戻ってくるかもしれない
そんな可能性がある限り
すなわち
死が人生を強制終了する瞬間まで
愛なんだと思う。

そんな愛に溢れた関係性の中で生まれた作品(物?人?事?)に私は感動する。

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2009年2月 7日 (土)

コラボレーション

すごい組合わせである。

歌手、浜崎あゆみ(30)が米映画「DRAGONBALL EVOLUTION」の全世界テーマソング「Rule/Sparkle」で原作者の人気漫画家、鳥山明氏(53)と強力タッグを結成する。

って奴。
なんと言っても
漫画=オタク
あゆ=ギャル
だとすれば
分かり合える事のなさそうな
「オタク×ギャル」のコラボである。

しかし
こんなの驚くことでは無いのだろう
覆面の男が政治の舞台に上がるかと思えば
水着の美人政治家もいて
文学館にはポルノもあり
美術館に便器が展示され有難く拝見され
アートオークションにアニメフィギュアが高値が付く

とんでもない物

なんて物は実は存在しない。
トイレに便器があるのは当たり前である。
秋葉原に美少女フィギュアがあるのも当然。
それが美術館にあるから
とんでもない物になるのだ。
物が変わった訳ではない。
関係性が変わったのだ。

と、言うことはトラディショナルであればあるほど、そこに意外性を持ち込むことが可能なのだ。
堅苦しい世界ほど面白いと言う
まさにアンビバレントな事が起こっている。

だから、どの業界を見回しても古臭い物の
埃を払いながら必死に探しているではないか。

現代アートは骨董どころか化石まで持ち出し
最先端を歌うセンスある雑誌の特集は
「農業」
「利休」
「盆栽」と来たもんだ。
これは温故知新ではない。
なぜか
新しくないのだ。
単なる物質主義か昔へ戻ろうである。

それでも「ギャル文化×オタク文化」
みたいな、新しい文化交流もあるから楽しい。
2347za

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2009年2月 5日 (木)

お勧め企画

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今日2つの企画(ギャラリー)を回ってきた。

1つは石田屋犀川店(金沢市)の
大宮静時×神代良明さんの
「いままでにない器といままでにないガラス」(~2/9)
神代さんのガラスは素晴らしい。
いつか一つ欲しいと思っているのだが
今回の企画では大きい作品と、小さい作品しかなく
程よい大きさが無かったため断念。

もう1つは工房SHOP SAKAI(野々市町)の
「浜松・由美画廊版画コレクション展」(~2/16)
浜松で30年以上、版画を中心にしたギャラリーをされている方のコレクションだけあって、そのラインナップは感動的である。
美術館の学芸員が公務員化(学芸員の責任ではなく仕組みの責任ではある)するのに対して
このコレクションの素晴らしさといったら・・・
しかも今回のコレクションは販売もされる。
しかも版画なので価格も安い。
石川県のアートファン、この期間中に石川県・金沢市へ訪れる方は必見の企画です。
入場料を払っても惜しくない企画です。
この時点で09年のベストエキシビジョンへノミネートです。

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2009年2月 4日 (水)

LOVE is ALL

どんなことも

どんなものも

喜びよりも

圧倒的に苦しみが多い

それと戦うのは

愛が全てだし

愛しか方法も思いつかない。

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2009年2月 3日 (火)

素材主義

負ける建築という言葉が流行ったので、どうしても安易に使いたくなってしまうのだけれど
ようは素材、要素が大事だということ。
これは金融資本主義みたいな実態もなく
一部の現代アートのような技術は無くてコンセプトだけみたいな
それらにコリゴリした我々が
その反動で逆側に振れているだけだと思う。
しかし我々は人間であり
肉体を持っていて
その肉体はヒトなのである。
であれば、素材を無視して色々と出来るわけが無い。
そう考えたとき、私達の世界観はどうしても繋がっているので
それがあらゆるジャンルに飛び火する。
WEBも然り。
情報さえあれば良いというのであれば
WEBは部数の制限もなく
空間の移動も不要であり
流通コストもかからない。
エコロジーでエコノミーである。

それでも我々は紙のメディアを捨てない。
むしろ益々紙メディア自信を愛している。

表層的なWEBと肉体を伴った紙メディア
これは全く違うものである。

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2009年1月21日 (水)

説得力

「リアリティより説得力」
これが最近思っている事である。

本日オバマ氏がアメリカ大統領に就任した。
彼の演説に注目が集まり
演説の上手さが評価されている。
演説というのは説得力である。

ここでもやはり「説得力」だ。
説得力はかっては政治家の演説ではなく
僧侶の説法であった。

説得力=神(仏)

だったのだが、それも今は
神は死んだという言葉があるように
神から科学へとシフトしてしまった。
この

説得力=科学

というのは、ただ神が科学に置き換わっただけである。
ニーチェがしたように
もしくは科学の不完全性があるように
最終的には人間がすることであるため

説得力≠真実

であることは変わらない。
(リアリティが本物ではないのも同じ)
結局、我々は真実(本物)を手に入れようと必死なのだ。

しかもそれが手に入ってないのに
暫定的に、それ(神⇒科学、演説)によって
人々に真実(本物、正義、安全、環境に良い、善、etc)だと信じ込ませている。

信じ込ませる。
それが説得力。

「信じるものは救われる」
どう受け取る?

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2009年1月16日 (金)

哀れなアート

アートは元々宗教から生まれた。
信仰心や、原始の祈りが絵を描かせた。
そして教会、寺社仏閣といった宗教建築とともにアートは歩んできた。
アートは常に建築と一心同体であり
仕える主は神仏だった。
それが建築からの独立を獲得し
いまでは建築をアートが支配できるまで力が逆転した。
そして哲学と経済、科学が
三位一体となって神を攻撃して
神は死んでしまった。
アートは仕える主に先立たれた。
支えてくれていた建築も
いつしか自分が支えなくてはいけない立場になった。
アートはアートだけで自立しなくてはいけなくなった。
アートの専門家はガッチリと理論武装して
なんとか生命維持をしている。
しかし、アートは関係性の中でしか存在しない
すなわち
アートではないモノ
普通なモノと対比しなければ
アートとはならない。
アートはこれから人に仕えるべきだと確信している。
それなのに
アートは益々
経済・お金という主に仕え始めている。
アートの先輩は学問である。
学問は、もっとずっと前に産業に仕えている。

いつも感じることがある。
アートは学問の後追い。
しかも
アートは経済に仕える。
私はアートを哀れむ。

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2009年1月14日 (水)

LOHAS(ロハス)とは何かを考える

我々は地球に生きている。
基本的に地球は太陽光というエネルギーが入ってきて、熱エネルギーが出て行くだけの機関である。
物質的には出入りがほとんど無く、地球上で循環しているだけである。
だから私達の身体を構成している素材も、物質循環の一部である。
だから人間は環境の一部である。
例えば水に着目すると、水は地球から出たり入ったりしないで地球上で循環している。
循環のある一瞬に我々の体内にあるのだ。
そういった繋がりを考えれば環境と健康は直結したシステムである。
ヘルス(健康)とサスティナブル(環境)の組み合わせは、とても自然な組み合わせだ。
一般的に何かを選ぶときに環境負荷がより低いものを選択するとエコだと言っている。
ペットボトルを選ぶ人は、その軽さ・薄さ・丈夫さによって破損のロスや輸送時の環境負荷の低さを主張してエコだという。
ガラス瓶を選ぶ人は何度も使えることや、ペットと違い完全な再生が可能であるという点を主張してエコだという。
アルミ缶を選ぶ人は軽さ、薄さ、丈夫さに加えてリサイクルの容易さを主張してエコだという。
どれを選んでもエコになるのだ。
生産、流通、廃棄の3つで起こる問題は全く次元の違う話なのに
環境問題という同じ土俵に乗せてしまうから、まともな判断ができなくなっているのではないか。
結局は利益に関係している人間からの偏ったデータを参考に自分で決めるしかない。
膨大な論やデータを普通の人が集めて比較するなんて技術的にも、時間的にも困難である。
だからなんとなく良さそうだったり、みんながしているとか、昔からしているように自分も行動する。
なんとなく良さそうだという脱理性的判断で物事を決めようという姿勢(思想?)をロハスの思想と呼ぶと、ロハスは考えるではなく感じる事ではないか。
思い起こしてみるとロハスピープルは感性を大事にして、身体や自然の声に耳を澄ませていそうなイメージがある(私だけか?)
考えるより感じるという考え(「感じ」とした方が良いのか)は、考え抜いた末に感じるのと、考えないで感じる事がごちゃ混ぜにされるあたりサブプライムや食品などの色々な偽装の様だ。
ロハスと偽装というのが根本的に相性のいい理由はこのあたりか。

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2008年12月29日 (月)

「いいひと」は迷惑です

なんだか、少しアクセスが増えていた。
おそらく「さんま・福澤のホンマでっか!?ニューススペシャル」の性ではないかと思う。
私は飲み会に行っていたので、この番組見ていないのだけれども、内容にいくつかエコの問題を、テレビの普通とは逆の方向で解説されていたらしい。

まぁ、そんな事はどっちでも良いのだけれども
本当に世の中には「いいひと」が多くて困る。
もう少し正確に言うと
「善いことをしたい人」
もしくは
「自分を善い人だと思い込無のではなく、本当にそうだと思い込んでいる人」
彼らは私からすると、とても迷惑な人である。
基本的に「いいひと」が嫌いである。
彼らは「みんなで」しようとする。
すなわち常に自分は正しいと確信しているのだ。
正しくないかもしれないと疑う能力が欠落している。
きっと、そおいう人は自分の頭で考えていないと私は決め付けている。
そうでもしないと説明が付かない。
だって自分で考えていれば「みんな」同じ考えに至るわけが無い。
それは、景気回復には
<消費税アップ>そのかわり住宅などの最低限の生活保障をする。生活不安が不景気の原因だから。
と考える人
<消費税ダウン>それによって消費を刺激して不景気対策をする。
と考える人。
同じ時代に生きて
同じ社会現象にぶつかっていて
同じくらい正しいと思われる。
それでも真逆の結果に至る。
いいひとは、浅はかなのだ。
きっと戦争が始まれば、喜んで戦地に家族を送り
より多く殺してきたことを褒めるようになるだろう。
私は戦争を起こすのは、いつも「いいひと」だと確信している。
むしろエゴイストや悪人だけが戦争を止める事が出来るのだと信じている。
しかし「いいひと」こそが本当のエゴイストなのだ。
エゴイストや悪人は、むしろ、その社会的な役割を担わされている本当の善い人なのだ。
今回、わざと複数の、さらに真逆の意味で「いいこと」や「善い人」「善人」を、ごっちゃにして書いた。
書き分けるのが面倒だっただけなのだが
世の中には賢くない人(と自ら思っている人)は居ないのでキチンと読んで下さい。

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2008年12月21日 (日)

歴史の歴史

「杉本博司 歴史の歴史」のレクチャーメモ

<コレクション>
余剰な物をストックする行為。これは本能的なものである。
そう言われてみれば、内田樹氏も勉強するというのは「今」必要でなくても「いつか」役立つかもしれない知をストックするのが学びというような(そうとう端折ってます)事を書いていた。それの物バージョンだと言う事か。

<公と私のコレクション>
美術館の公のコレクションは客観的でなくてはいけない。
個人コレクターの私のコレクションは自由気まま。
そういったコレクションをめぐる違いを入れ替えてみる。

<歴史は未完である>
記述されて初めて歴史となる。
その記述は常に勝者による記述である。
敗者による記述とは。色々な視点。
歴史は既に終わった出来事ではあるが、自分の中で今立ち上がる。

しかし杉本博司は今日の資本主義によって、かなり大成功した「勝者」であり
杉本氏の視点は勝者の視点の域を出ていないのではないのかという意見も会場より。
結局は勝者の声にしか、勝者も、敗者も、それ以外の者も耳を傾けないからなぁ。
しかし、こういった問いの危ないのは社会の底辺の人間の実情は、社会の底辺の人間にしかわからないというロジックにより、社会の底辺に居座らなくては言葉に正当性を持たせられないというおかしな理屈に陥る可能性がある。

「歴史の歴史」にも歴史(変化・変動)がある。
そうやって見ていこうとすると、実は限りがない。
メタのメタとしていると、永遠に楽しめる。
しかし道を究めんとしている武道や茶道などとは違う。
実は並べ替えでしかなく、不毛であるとも解釈できる。
その先に何があるのだろうか。
何があるかではなく、求めずには居られない「やむにやまれぬ」事情を抱えた人間がアーティストやコレクターになっていくのかもしれない。
だとすればアーティストとコレクターには非常に似通った性があると言える。
元々似ているということは、両方を兼ねたり、行き来している人が居るのも不思議ではない。
そんな不思議ではない存在が杉本博司なのかもしれない。

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2008年12月 1日 (月)

クリエイター

クリエイターというのは、あんまり認められていない言葉なのか???
というのはクリエイターという言葉が一発で変換されなかったからだ。私の使っているソニーのパソコンが馬鹿すぎるのか、マイクロソフトがアメリカ人だからカタカナ語は苦手なのか。
まぁ、どうでもいいのだけれども
時間があるときには内田樹さんのブログ「内田樹の研究室」のバックナンバーを読んだりしている。
そこである日のブログを読んでいて氏の認めるクリエイター像を読んで納得した。
まずは読んでいただければと思う
http://blog.tatsuru.com/2008/08/07_1131.php
私はライターなのでやっぱり職業としては原稿料が貰えないと困る。
読んでいて頭に浮かんだのは、イコールの中西さんはお金を払って書いて作ってしているので
内田樹氏も認めるクリエイターだと言うことが証明されたので、お祝い申し上げます。

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2008年11月30日 (日)

重文「宝誌和尚立像」

宝誌和尚立像を拝見しました。
なんなんだろう、この発想。まぁ故事が由来であると言うことなので、故事がすごいのかもしれないけれども。
京都国立博物館 平常展示館ですよ。
国宝&重文がこれでもかーっと一気に見れます。
しかもタダ=無料=¥0です。
というのも展示は12/7までで、来年から約5年かけて谷口吉生建築に建替えだということです。
楽しみである。
しかし5年後の話です。とりあえず今すぐ見に行きましょう。

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2008年11月28日 (金)

芸と藝

芸と藝は違う字だったらしい。
前者はウン、後者がゲイ。
ウンは「くさぎる」とも読み、草を刈ったり、除草したりして植物を育てることを言ったらしい。
ゲイは技術全般そして植えるということをさしていたようだ。
植物を取ることと、植えること。全く逆の意味であったものが明治期にたまたま同じ「芸」という漢字になってしまったらしい。
どちらも植物を育てるということでは共通するので問題無いのか。
芸術と園芸の重なり具合。
さらに「芸亭」と書いてウンテイと読み、図書館。さらには「学問の場」という意味があるそうだ。
これはヘンルーダという植物を芸草と言い、この植物が虫除けのハーブとして広く使われていた。
そのため書物のある場所からは、ヘンルーダの香りがして、ヘンルーダの香りは書庫の香り、書庫・図書館は学ぶ場所ということらしい。
「芸」という1文字が園芸・芸術・学問を表す要になっている。
大変興味深い文字である。

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2008年11月20日 (木)

杉本博司

杉本博司「苔のむすまで」を読む。
読もうと思って買ってあった「積読(つんどく)」の一冊だったのだけれども、今週末より始まる待望の、杉本博司個展「歴史の歴史」(金沢21世紀美術館)が始まるのに間に合わせるために読み終えた。
昨年の森美術館での個展で、感動した私としては楽しみである。
しかし昨年観ているので、今回は予習をしっかりして見方を変えようと思っている。
ぜひとも初日のアーティストトークを聞きに行きたかったのだけれども、都合が付かず断念。残念。

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2008年11月16日 (日)

冷静と情熱の間しか無くないか?

内田樹さんのブログを最近になって読み始める。今日のような休日にまとめて読もうとするとすごく疲れるし、読みにくい。ブログって読みやすいですか?只だから良いけれども、お金を出してまでは見たくない。やっぱり本を買うなぁと。
ネットの内容にヒトはそんなに影響をうけますか?
影響をうけなければCMの効果は広告代理店の大本営発表に言いなりで、うける事として処理しますか?
なんだか私の周りで「ポータルサイト」を作ろう、もしくは作ったらどうかという話が増えている。
個人的には2,3年になるどうか?ライブドアがが行け行けゴーゴー!という時代の話に聞こえて仕方がない。
ネットバブルに浮かれたボケが、バブル崩壊して冷静になったけれども、また金融やら新興国によるバブルで、戦後最高の好景気というものでボケているんじゃないのか。
そしてその好景気も躓いたので、もうすぐ冷静になるのだろう。
情熱というのはボケである。馬鹿でもいいんだけれど。愛が情熱的になれば「色ボケ」「バカップル」と呼ぶし、他にも「○○キチガイ」「○○狂い」「○○信者」なんて言い方もする。
ヒトは何故こんなにボケやすいのか。でも平和ボケしていられるのはとても幸福なことであるので、ボケは幸せと平和の証だから嫌う必要はないという面もある。
webの未来について考える。面白いことが出来るのではないか。可能性を信じている。信じる根拠はテレビやラジオの視聴時間は横ばいか低下しているのにインターネットの閲覧時間は延び続けているからだ。
そして端末&アクセス方法の多様化&廉価化によって普及もますます進むだろう。
しかし内容はとてもつまらないままだ。
むしろ紙に劣るメディアになりつつある。
それは先日より書いているように「出会い」を生みにくいと言う事だけではなく、紙で出来ることを、単にコスト削減だったり、届け方が物理的制約をうけないというメリットで使われている程度だからであろう。
ネットでしか出来ないものがWEB2.0ではガッカリだ。
そうは言いつつも、結局なんだか緩やかに全てが融合していくように見える。
幸せという価値軸では貧困も裕福も大して影響力を持てず。
資本主義は破綻して、公的資金の流入で社会主義化が進み、社会主義はとっくに少しずつ資本主義のDNAに侵食されている。
男と女もなんだか似たような性向を示し。
メディアもそれぞれの利便性をつきつめると言うよりは、適度にミックスして効果を狙う。
ストイックという価値観が消滅していって「効果原理主義」に世界は一極集中してきている。
それ以外では他人を納得させることが出来ず、益々単一の物差しを必要としている証拠こそが「これからはコミュニケーションの時代」ということだろう。コミュニケーションは嘘だ。単に通じるかどうかという話をコミュニケーションを呼んでいるに過ぎない。
もう全部ぐだぐだになっているから厳しいという概念も出番が減っていくだろう。
均質化、均一化しているとしか思えない時代。
エントロピー増大の法則ですね。なんて科学法則を当てはめて、わかった気になっても仕方が無い。
システムは生命や生態系、キャッシュフローを考えればわかるように、流れていて初めて生きるのだ。
流れこそがシステムであり、流れこそ活力である。
では流れはどのようにして起きるのか。それはご存知のとおり高低差や密度差によって起きる。これを富や権力の高低差・密度差と読み替えてもらっても良い。
差別をしようとか、二極化を進めようなんてかけらも思わない。
しかしこの平等であり、均質になろうとしている世の中は、自らの内にでも高低差や、何かエネルギー源を持たなければ、どんどん淀んでいく。
実は極端な話、冷戦だとか戦争だとか、貧困と裕福などの強烈な二項対立のようなものがある方が社会システムは安定するという悲しさ。
それを歓迎するわけには行かない理性の苦しみ。
問題点の列記は限りなく多い。
しかし問題の解決が、新しい問題を2つ以上生むのであれば解決せずに放置するというのもまた正解である。
それを抽象的に表せば「所詮は、お釈迦様の手のひらで踊るような」ものであり、我々は真理に近づいた訳でもなく、何かを変えることが出来たわけでもないと斜に構えて言うしかなくなる。
冷静とボケの間を行き来するのは、そうやって何処かにある富をマーケットは吸い込み、また何処かへ吐き出すという命の呼吸なのかもしれない。

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2008年11月11日 (火)

頭が痛い

先日、珠洲という能登半島の先端にある、舟あそびという変わった名前のギャラリーのオープニング企画を見に行く。
山本基さんの新作をが見たかったのだ。
車を運転している途中、なんと桜が咲いていた。こんな寒い時期に桜が見られるとは思ってもいなく、きっと十月桜だね。と言いながら珠洲へのドライブを楽しんでいた。
そして山本さんの新作である。あぁ、なんてことだ。参りました山本さん。
そして帰ってきたのだけれども、どうにもこうにも風邪っぽいらしい。珠洲へ行く前に終わらせようと、締切をひとつクリアした安心もあるのだろう。
そんなわけで日曜美術館「金沢アートプラットホーム2008」の話や、内田樹「こんな日本で良かったね」の読後感想、「アートトップ」最終号に対する意見や思い。色々とネタはあるのだけれども頭が痛い。
そんなこと言ってる間に次の締切に迫ってこられる。
そんなわけで、またブログをサボりつつ、1日にまとめてぶち込む書き方になってしまった・・・。そのうち整理しよう。そのうちというのは年内だろうか?

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2008年11月 8日 (土)

横トリ2

横浜トリエンナーレの別会場、三渓園へ行ってきました。
本会上よりずっと面白かった。
アートは元々建築の一部であった。そして建築家から、施主から依頼されて作っていた。
それが建築からの独立を目指し、戦い、それが成功したとき、建築側へ大きな影響をも与えた。
アートとアーキテクチャが似ているのは兄弟だからだろう。
それが段々、サイトスペシフィックなんて言葉が使われて、もう一度「場所」主に建築に依存をし始めた。
当然、依然とは別の仕方で。
その一つが今回の庭園のような、現代アートに比べてずっと厚い歴史を持ったものとのコラボレーションであろう。
きっとこれからはこの様な(詳細は言葉にして伝えようと言うところまで固まっていないので、どのような?と言う質問はタブーである)アートイベントが主流にさえなるだろう事が予測される。
予測できるという事は、それは私の考えの一部。すなわち他者ではない。「想定の範囲内」と言う言葉をついつい言いたくなる。予言は外れて欲しい。そうでなければ益々孤独になってしまう。

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2008年10月29日 (水)

金屋町楽市

富山県高岡市で開かれていた「金屋町楽市」を観てくる。
何が見たかったかというと金物の街、金屋町の街並みと、建築家・隈研吾さんのデザインしたアルミ製の展示台がどのようなものか知りたかったのだ。
どちらも中々良かった。
アートをうたう街中イベントの延長にあり、工芸がかなり入っているのだけれども、産業と言う認識が強かったからではないだろうか。
次回があるのか解らないが楽しみだ

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2008年10月22日 (水)

芸術の秋

流石に芸術の秋だからだろうかアートへの注目が上がっているようですね。
先週からアクセスランキングに変動がありました。
「金沢アートプラットホーム」やら「金沢21世紀美術館」が検索キーワードの上位に入って来て、さらにアクセストップになっています(まぁ、これらはリンクしてるから当然か)。
「アートが注目を浴びるのは良い事だ」と取るべきか「環境よりアートが大事とは・・・」と人々の飽きっぽさを嘆くべきか。
意外とハウツーセックスとかエロ系の話を書いたら、それがアートやら環境を上回るかもしれない。その方が人間って正直だなぁって、いやらしい笑みを浮かべながらアクセスランキングを読めるのでアダルトビデオの人気女優の名前でも列記しておくと面白いかもしれない。

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2008年10月14日 (火)

忙しいもんだ

芸術の秋である。
飽きるほどのアートイベントを駆け回っている。
町家巡遊、金沢アートプラットホーム2008に続いて、横浜トリエンナーレ、赤坂サカスでのアートフラワー2008。その他単独で行われる数々のアート・デザイン・ファッションイベントに走り回っている。
どうやら11月中旬までこんな感じになりそうだ。
それにしても、アートも完全に資本主義的になり、流行を追い掛け回しているように思えてならない。
街中点在アートが満載だ。
富山のヒミングに取手アートプロジェクト、水戸カフェ・・・・世界中で多発している。金沢21世紀美術館で4周年のアートフリーマーケットが行われれば、そのまま同じ時に金津創作の森でもアートフリーマーケット。
それから、さらに資本主義と似ているのはお金があるところの企画の方が、やっぱり基本的に面白いという事。私が回った中ではアートフラワーが一番良かった。
現代アートはものづくりを離れてコンセプト、概念遊びになっている。ものづくりを離れてマネーゲームをしている資本主義と似ているようだが、破綻する所まで似ないで欲しい。
「アートとお金」それは「人間とお金」の問題となって私に降りかかっている。

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2008年10月 4日 (土)

金沢アートプラットホーム2008

金沢21世紀美術館主催の金沢アートプラットホームを観て回って来ました。
そして、これに時期をあわせて、もしくは良い時期なのでたまたまかもしれませんが、物凄い数のイベントが金沢では開催されています。
全て回るのは不可能。どれを諦めるか悩ましい所。
金沢21世紀美術館開館の年の盛り上がりを思い出します。
金沢人は文化イベントが大好きなんだなぁ

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2008年8月31日 (日)

アートの情報

アート情報を得るのに便利な方法。

それは「ぴあ」の立ち読みだった。

それがここ数年でグングンとページが減り、とても見難くなってしまった。やっぱり皆立ち読みで済ませるからか?チケットはぴあで買わないからか?

台頭するようにネット系も沢山表れたが、どれも個人的には使いにくい。

ネットだから、情報の一覧性が悪いのに、紙面の限界が無いので情報量は過多。結局「生きた」情報になりにくい。さらに紙ベースと違って信頼も薄い(紙より薄いというのは表現としては面白い)。WEB2.0なんて、信頼以前の2ちゃんねるみたいなモノだ。

さらに持ち出す事ができない不便さも加わってか、ネットでアート情報は私の周りでは、それほど活用されない。見たい企画をグーグルで検索して、主催者のWEBを見る(急な変更があっても、即座に繁栄されるし、一番信頼できるからだろう)。

なんでこんな話しかというと、今度関西方面出張があるので「関西アートビート」のWEBにアクセスしたのだが「休止のお知らせ」が大きく出ていて、関西と言う広くて、大きな経済圏でも、さらにアートビートでも(公共が出資していると聞いていたので)続かないのだと思ったからだ。

こちら金沢でもアート情報サイトが出来るとか、出来ないとか言う噂は聞いている。これは出版の創刊と廃刊が多いのが、ネット世界にシフトしてきたという事だろうか。

だとすれば、ドンドン新しいWEBが湧いて、ドンドン休止して、と言うのは活性化じゃないか。皆でこの状況を歓迎するべきだ

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2008年8月18日 (月)

本物

本物と普通とでも言おうか。

「闘うデザイナー」だとか「闘う料理人」だとか「闘う○○」という風に言う人が居るが、私はこれに違和感を覚える。闘っていない人なんて居るんですか?

公務員は全員闘っていない。主婦もなにとも闘っていない、ホームレスも闘っていない。そういう事なのか。

いや僕の言う「闘う」は違うんですよ!と言われても闘い方だって、闘う対象だって人によって違う。だから「闘う」と言う言葉が人と違うなんていうのは、当たり前である。それを限定するなら「施主と闘う建築家」とか限定するべきだ。

生きている人間は全員闘っている。自分と、老いと、社会と、、、、、だから「闘う」なんて言葉を付ける必要は無い。闘うということは本当はもっと静かで、辛く、苦しい葛藤のようなものだ。それを言葉にする=客観化して、さらに他社に共有してもらおうと名乗るなんてありえない。「闘っている自分の理想像」に酔っているだけか、闘っていない自分を恥じて、それを隠蔽するのに必死なのかと勘ぐってしまう。

昨日、ある女性の画家さんとお話をした。よく金沢城でスケッチをしているというので、私は安易にも「それじゃ金沢城の植物展とかそお言うテーマで個展をしたらいいんじゃないですか」と言ってしまった。

それに対する彼女の答えは「NO」。

そうすれば「地元の事を愛しているいい人」だとか「郷土ネタとしてメディアも扱いやすい」だとかメリットは山ほどある。しかし彼女は自分の絵を見てほしいと言う。絵で勝負するのだという。

私は感動してしまった。

最近は「地産地消」だとか「郷土野菜(石川では加賀野菜)」、他にも仲間になるのは「ロハス」「エコ」「食育」など。そういった言葉を武器にして闘うやからが多い。

まるで流行に乗っかり、実力よりもそういった二次的なものが主役なような振る舞い。

画家は絵で勝負する。料理人は味で勝負する。

そういった本来の姿が失われているように思う。もちろんそんなつもりは無くて「絵」プラス○○、「味」プラス○○でしていたのが段々ウエイトの置き場所が歪んでしまい、本末転倒する。だから彼らは自信を持って、疑いも無く自分を本物であると考えている。

だから全員が本物かと言えば、そうではないのは自明であろう。

画家の実力は郷土愛の深さと別に観なくてはいけない。

画家は郷土を描くから取材されるのではなく、絵の良さを取材されるべきである。

「地元野菜を使った○○」とか「本物の○○」とか「闘う○○」とかは、本質的な実力や作ったものの素晴らしさを消し飛ばすくらいに人間としての卑しさが滲み出ている。

ビジネスだから仕方が無い?

仕方ないという言葉は妥協したということであろう。それをもって「闘う○○」と言う無かれ。

ビジネスをするのは良い。儲ける商いも良い。しかし「何が悪い」と堂々と言うほど偉いものでもない。

尊敬できる大人が少ないものだ。

本物/ホンモノとは

偽物/偽者とは

普通/それ以外とは

あなたはどうやって生きていくのか。

私はホンモノだろうか。

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2008年8月 5日 (火)

デザインとアート

金沢21世紀美術館で行われている「サイトウマコト展」を見てきた。

アートが元気がなくて、デザインの方が元気であると思うのだが、デザイナーの個展が美術館であるというのは、その一つの証明であろう(もしくはそれがあるから、そう思うだけか)。

普通に見ていると油絵のように見えるのだが、近づくと印刷されたもの特有の無機質さというか、絵の具のノリがない。

そおいう意味では初めての体験であり、不思議な感覚をもっている。

しかし、それはある種のメディアアート、例えば磁性を持ったインク(液体)でアートをしている人がいるように、新しい技術の見本として行われるというレベルでしかないように思う。

それをしっかりと力強く超えなくてはアートにはならない。

それではいつ超えられたのかと聞かれてしまいそうだが、それは解らない。

人を感動させられるかと言うところが、最も大きいだろうが、それは個人差が大きすぎる。

サイトウ氏のものがアートに入っているのかどうか、ぜひご自信で確認頂ければと思う。

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2008年7月31日 (木)

八月五日は、ハコの日

七月も今日で終りである。

昨日、金澤アートイベントカレンダーイコールの5号が届いた。

今回は開くとポスター。ポスターは買うと1000~2000円するので太っ腹だ。

それから今回は別冊がある。編集長の運営するアートスペースpAR:siTeの特集である。

掲載された企画「ハコ展」。箱を通じて「空(クウ)」と「無」への考察。現代美術作家の山本基さんは塩の迷路ではなく、全く新しいものを出すという。必見の企画である。

以下pAR:siTeよりコピー

「ハコ展」

8月5日(火)-24日(日)ただし13~17日は盆休

箱は中にモノをしまうという機能の為に中身が空です。私たちは普段意味の無いものや中身の無いものを嫌います。しかし箱は中身が無いゆえ価値を持ちます。本企画では「中身の無い」ことに注目して、何かを収納することは目的とせず、ただ箱のそのものを楽しむ展示を致します。箱は守るもの。箱は隠すもの。そういえばギャラリー自身もハコと呼ばれます。どんな箱がやってくるのか、ふたを開けてのお楽しみ。 上田 普(書) 上出惠悟(九谷焼) 川嶋貫介(建築) 桐本泰一(輪島塗) 田 聡美(ガラス) 山田真子(山中塗) 山本 基(現代美術)

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2008年6月13日 (金)

ココロのカタチ

パラ:サイトで始まった「ティアラ~ココロのカタチ~」を観る。

Dentiara

アクセサリーなどには興味が無いのだけれど、ココロのカタチとはなんぞや?と思い観てみた。マリッジブルーという言葉があるように結婚は幸せ一色の単純な世界ではない。

場合によっては「恋愛の墓場」とさえ言われるし、二人の生活の再スタートでもある。

そんな未来へ対する不安や、危険さ、脆さや、過去の決断へ対するブレとして浮気なんてタイトルを見るとドキッっとしてしまう。

作品は全てガラスだという。壊れやすいココロ、壊れるまでは美しいココロ、壊れた瞬間に刃物になりそうなココロ。こころ、心、ココロ、kokoro・・・

ジューンブライトの元にもなった女神ジュノは現代人の結婚観をどう見るのだろうか。

この企画、結婚を控えている、お考えの方は共感できるかも?

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2008年6月 5日 (木)

二十世紀最大のアート

もうすぐ21世紀も1割が終わります。

20世紀から何かが変わったのでしょうか。

個人事で申し訳ないのですが私のテーマでもある「環境」に興味が集まり、少しずつではありますが知識が得られてきています。

アートとは元々、人工物という意味。実は政治も経済も戦争もアートなのである。そのアートである戦争を解決するのもアートだ。その中で最大のものは「環境破壊」もしくは「環境問題」だと思われる。

人類は平和を願いながらも、平和を勝ち得る事はできなかった。まぁ、勝ち得るという発想自体が勝ち負けだから戦い=戦争の素なのかもしれないが。

しかし世界中が共通の問題として環境問題に取り組もうとしている。戦争は最大級の環境破壊である。となれば、もはや戦争と言う贅沢はしたくても出来ない世界になるかもしれない。

もっと環境を破壊して、人類が立ち行かないほどの深刻な問題が目前にまで迫った時、その時の地球は戦争がなくなるのではないか、しかも完全に環境が回復するのには途方もない時間がかかる。ある意味サスティナブルな問題だ。

乗り越えられることもない平和への重しになれば環境問題は最大というだけでなく、素晴らしい人類の創造物=アートになるかもしれない。

それとも貴重となった資源を奪い合って殺しあうのだろうか・・・・それもアートだから良しとすれば良いのか

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2008年5月25日 (日)

活性化に絶望した

東京に住んでいた。それから金沢に移り住んでいる。

最近思うことがある。活性化こそが死への道ではないかと。

解りやすいのは活性酸素が細胞を殺すということ。これを街に置き換えると、街の活性化が進む、細胞である町の店や住人は死ぬ。

解りやすい例は我が町に大型ショッピングセンター(大企業・大資本etc)がやってきた。それを中心に発展するかもしれないが、小さいお店などは消え、結局日本中同じ風景となる。そして、そのショッピングセンターなりが去ってしまうと、街は死に絶える。

活性酸素の話だけではなく、生物界では同じような話は多い。

ある動物が増えすぎれば、かなりその後劇的に減る。もしくは絶滅する。

ある植物が生い茂ると、ある時に何らかの原因でその植物が死ぬと、まるで全部の植物が死んだような風景が出来る(日本は自然が強いので実感しにくいが)。生物多様性を大事にしようとか、エコロジーをと考えるのであれば街の生物多様性や、街のエコロジーに関しては考えないのか?北極熊のすむところが無くなるとヒステリックに叫ぶ前に、商店街の金物屋さんが無くなると叫ぶべきではないのか。

金沢でも町の活性化の為の活動がいくつもあり、また一つ始まったという記事を発見する。活性化が進めば死も増える。死人は声を出さないので活性化の良い面ばかりを見ている。この記事から死者の声、死者の警告を読み取って欲しい。

経済の話(環境問題)・ニュースや活性化はまるで戦争中の本営発表のようだ。

疑問を持ったら非国民であるという変わりに「KY」という言葉までセットで開発したファシズム。

死者の声を聞かせない、もしくは聞かせないために殺すという「死人に口なし」の偏った情報=フィクション。

街の活性化の代表者たちに群がる各種メディア(今回の情報リソースにリンクした2社様申し訳ありません、あなたがただけではありませんのでお許し下さい)という流行=ファッション。

そうであるエコの時に書いたようにこれも3Fなのだ。

大儀という旗を降ろしなさい。

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2008年5月18日 (日)

珠洲焼のデザイン論

G-WING'Sギャラリーで行われている珠洲焼の企画展示・篠原敬「陶」展を見に行く。

珠洲焼というものを知っていらっしゃる方は解ると思うのだが、無骨でゴツゴツしていて、上品さは微塵も無いと私は感じているのだが、篠原さんの作品に関しては非常にシャープにセンス良く仕上げていらっしゃる。

おそらく鉄分などの含有が多いため、もろく、ゴツクせざるを得ないのだろう。

それをカバーしているのはカタチだ。例えば壷の口の部分など家具などで使われるようなエッジに向かって傾斜を付けるテクニックが使われている。そして全体のフォルムが重さや鈍さを消し去っている。

なんというか壷を見ているときにジェットエンジンかスポーツカーを思い浮かべた。それほどに研ぎ澄まされたカタチなのだろう。工芸好きや珠洲焼に興味のある方は当然ながら、デザインを学ぶ若者はデザインの力を知るためには頗る良い教材だと思うので見に行くことをお勧めします。

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2008年4月 7日 (月)

幸福とは何か

ゴミ出しのマナーが悪いため自治体がゴミを開けて注意をしているらしい。

その関連の調査でゴミの分別きちんと出来ますか?というのをやっていた。かなり自信のある人も間違えていた。エコのために何ができるかわからないと言う人は、まずゴミ分別のプロフェッショナルになってもらえば良いのではないか。

食の安全が騒がれている。自然・無化学であれば安全だという単純思考の問題はあるが、今日はその事は置いておいて、大人気の「有機野菜」について。それだけ有機だと言うが有機野菜の正しい定義を知っているのだろうか?減農薬との違いは?

次の偽装は有機野菜偽装だろう。誰が有機野菜と、化学薬品を使った野菜を食べ別けできるのだろう?すぐに健康を害する毒が入っているわけでもない。ロハスは偽装がしやすい悪の巣窟なのだ。ロハスを語るものは全て疑った方が良い。

有機野菜を作ると言う事が、どれほど大変なことか解らないから「有機野菜が良い」と言えてしまうのだろう。有機野菜の隙間から芋虫が出てきても、それを喜べるのだろうか?うっかり虫の卵を食べてしまい新しい病気(?)になっても許せるのか。許してもらえないならば農家は、そんなリスクを負う事はできないだろう。

有機野菜の通信販売も大変業績が良いらしい。「有機野菜」=「家族の健康」とすれば「地球環境問題」=「フードマイルの問題」とした場合に、どちらが優先されるのか。

それを「エゴ」>「エコ」と言ってしまうと意地悪すぎるだろうか。

結局は「知る」ための情報収集・勉強の時間が無いと言う。その事こそが問題なのではないか(一応環境などに興味があるという事を前提にしています)。

微生物の研究が進み、バイオ系の技術に期待が寄せられている。私も大変期待している技術ではあるが完全に安全なものなど無いと言うことも忘れてはいけない。

バイオの事故はケミカルの事故などよりずっと恐ろしい。それとも虫も菌も入り込まない工場で作られた野菜の方が良いのか。それとも今の野菜で良いのか。信頼できる農家さんを探すのか。

選択肢が多いと言う事は豊かなことだ。

しかし銃を突きつけられて「金を出すも出さないも、出すとしていくら出すかも、お前の意思にまかせる」と言われても、それは選択肢なのか。食は生命線であるから、大げさとも言えないだろう。

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2008年4月 2日 (水)

通路

川俣正の「通路」を見てきました。

コンセプトは最高に面白い。そうか!と感心した。

普段から環境問題に興味を持っているからかもしれない。

自分を取り巻く世界・社会や時間軸を広げて、ありとらゆる要素を考慮した結果、私たちはどう動くべきか。そんな事ばかり考えている。

それは環境、すなわち周りが「主」であり、本来は主役と思われている人間が「従」となっていると言うことである。

それを美術館に持ち込めば「展示空間」=「通路」が「主」であり、作品は「従」でしかない。

それを大胆にやってのけるとは凄すぎる。

私は既に主と従を反転させて考えていたのだ。それを再確認させられた。

しかし

やっぱり作品の無い展覧会は、少し退屈でした。「通路」は展覧会としての評価は高いのだろうか?

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2008年4月 1日 (火)

21_21designsight「XXIc.」

21_21デザインサイトの「21世紀人」を見てきた。

三宅一生の世界観はやはり面白い。「現代」だとか「21世紀」というものを考えるとき、同時代を生きる我々は客観的になることが出来ないので解りにくい。

しかし、それにあえて挑むこの展覧会は、その勇気だけで見てみたいと思った。

全体を通して「あぁ、今っぽい」という感じは大変受けた。

最近は正統派の美術館の方は、なんとなく元気がないというか、突き抜ける「突破力」みたいなものを感じないのに対して、デザインの方は元気であり、アートは完全に外の力を頼っている感じがする。アートは死んだ。そんな雰囲気が今っぽいのかもしれない。

だからデザイナーはカッコよくて憧れになるのかもしれない。

しかし、勇気を持って言おう「くたばれ!デザインー」と。

それは未来に対して犯罪を犯しているからである。罪人リスト上位は

○デザイナー:必要かどうかではなく欲しいものを作り、資源を消費してゴミを作る。

○広告代理店マン:消費を煽り、物の寿命を縮め、資源を消費しゴミを作る。

○建築家:どうしようもない量のゴミを作る。

○投資会社員:投資こそが成長イデオロギーの根源であり、多くの社会問題の元凶だから。

○人材派遣会社員:人身売買がこんなにも堂々と行われて良いはずが無い。

これらの仕事は若者に人気があり、若くても社会的に成功している人が多い(目立っている?)業界である。全て今日は合法であっても、将来的に犯罪としか言えないものである。

そんなものに若者たちが憧れていたり、目指したりしているうちは社会は良い方向へは進まないと私は確信している。これらの職業には就きたくないと思ってもらうためには、どうすれば良いのか。

デザインがアートより元気である今、それは非現実的である。

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2008年3月13日 (木)

マイブーム

保育所2年+小学校6年+中学3年+高校2年=13年

何かと言うと、私の書道歴である。しかしやらなくなってから10年以上・・・

最近その思いが蘇って来ている。書道家をテレビで見て、書道漫画「とめはねっ!」を読み、目をつけている書道家の個展に足を運んだり。

言葉の不自由さ、脆弱さ、暴力性、危険性、そして楽しさ。

それと表裏一体の存在である文字なのだが、書になったとき、また新しい側面を見せる。

モノクロの世界が全てを表している豊かさ。デザイナーよ、まず書を学んでくれ。

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2008年3月 6日 (木)

君はバナナを見たか!?

上出惠悟氏の作品を見た。

雑誌などで色々と取り上げられているので、ご存知の方も多いでしょう。

ああいう作品を見ると思う事は「アートは言語を超える」と言うことである。

ビジュアルの持つインパクトは、やはり強力である。

それでも何故書くのかと聞かれると、作れないからであるからなのだが、それでも「文化」と言うからには「文に変化」させて初めて文化なんだと信じて、非言語であるアートを言語に変換する。少なくとも「上出惠悟」や「九谷焼のバナナ」と言語にしなければ検索することは出来ない。インターネットはビジュアルより言語の世界だとしみじみ思う。

だから紙媒体が無くなっても、ライターの仕事は減らないと信じる。

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2008年3月 4日 (火)

中谷宇吉郎に感動

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ちょっと用事があって石川県に行きました。

そのついでに、気になっていた中谷宇吉郎雪の科学館に出かけた。

建築は水戸芸術館などで有名な磯崎新。

でもまぁ建築は主役ではない。展示の素晴らしさと実験に大いに感動した。子供の頃に見ていたら科学者を志したのではないか(選ばなかった可能性は、選ばなかった故に今も可能性であり続けるのだが)と思う楽しさだった。唯一のマイナスはティールームが禁煙ではなくタバコ臭かったことだろうか。

雪や氷の研究成果の素晴らしさと、その研究材料自身が美しいことの相乗効果で本当に良かった。そう思えるという事は建築家が建築家のエゴを出さず、かつ展示の見難い場所も無いように計算されていたと言うことである。

建築が主役の美術館、記念館が多い中で「展示」が主で「建築」が従になっている建築だった。中谷博士が偉いのは言うまでもない。しかし磯崎さんの設計も素晴らしい。

往復の車中から見える真っ白な白山が神々しく、本ブログでは珍しく絶賛尽くしの加賀旅行でした。

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2008年3月 2日 (日)

アーティストは労働者か

アートに飽きた。

飽きる、飽きないといっている間は個人の事だったのだが、美術家である川俣正さんが新聞に以下のようにコメントしていた。『住民参加や地域活性化の名の下に、アートが町おこしの手段として安易に消費される風潮にうんざりした(中略)今や全国に散らばるアート・プロジェクトの中には、手軽なイベントも少なくない。制度や権威を飛び出したはずが、もう一度別の制度や権威に組み込まれようとしている。』(2008.2.23日本経済新聞)

アートイベントのプロデュースをしているような方が言ってしまうのだから驚いた。私はアートの業界の人間ではない。だからアーティストという人はこうあって欲しいという一方的な願望を持っているのだろう。ステレオタイプ過ぎると思われるかもしれないが、孤高で自由、独立独歩でストイックに生き抜いて欲しい。しかし現実にはプロデュースやプロモーションにばかり力の入ったアーティストやイベントが多い。最近はその臭いに過敏になっているのか、見に行こうという気分になれない。アートはお金にならなくて大変だというがアーティストだけが大変なわけではない。厳しいようだが、私は元来アート好きだから期待を捨てられないのだ。

アートまでイベントにして消費するな。

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