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2009年8月 9日 (日)

大人は矛盾している

大人は矛盾している。

そう聞くと、大人に対する批判に聞こえるだろうか
それとも、ある事実を述べているように聞こえるだろうか。

私がココで言いたいのは
矛盾しているものを抱え続ける事が出来るのが大人であるということ。
矛盾を抱えきれずに、簡単に決着をつけるのは子供なのだ。
もちろん矛盾していれば皆、大人と言うのは倒錯した結論である。

善悪や環境問題、それ以外にも色々とあるのだけれど
矛盾せざるを得ないのだ。

例えばCO2と地球温暖化。
これらを正しいと信じるのも愚であり
これらを認めないと言うのも愚なのだ。

CO2が増加していて地球温暖化が進んでいる
その可能性は高い。
しかし、あくまで可能性が高いと言うレベルの話。
可能性が高いと言う事は
「全然違ってました。てへ」
って事もあると言う事。
だから信じないし、無視して良いという訳ではない。
可能性が高い以上は対応もしなければならない。
すなわち
1、地球温暖化すると困った事になる。
2、地球は温暖化している。
3、温暖化の原因は主にCO2である。
この3つは現時点で可能性が高い以上無視できないし
対策を採らなくてはいけない。
しかし、同時に3つが間違っているのではないかと思って居なければいけない。
間違っていると思うものを、とりあえず信じて対応する。
この矛盾が大人である。

私流に言うと、これを
「ハイブリッド」と呼ぶ。
地球温暖化防止しなくてはということと
地球温暖化は嘘であるということの
ハイブリッドである。
それは全く中途半端であり、無意味だと言うかもしれない。

ハイブリッド車(電気とガソリン)も
精々ガソリン車の2倍位の燃費だというだけで
べつにエコでもなんでもない低燃費な車だというだけである。
CO2を出さない車じゃないと意味が無い。
そう言う人もいる。
それは正しい。
しかし現実から離れてしまっている。
今出来る事は、脱ガソリンを謳いながら
ガソリンが無ければ走らないハイブリッド車という選択しか現実味が無い。

そうやって抜本的な解決が出来ず
問題を先送りすることでしか
現実的には物事を運転していく事ができない。

あぁ考えながら打っているから最初の意図と外れてしまった。
本当は
地球温暖化は悪い事だ!とか
地球は温暖化している!とか
温暖化はCO2が原因だ!と断言している人は
本当に環境については悩んでいないというつもりだった。
同じく
地球温暖化の何が悪い!とか
地球は温暖化していない!とか
温暖化の原因はCO2ではない!という人もいい加減だと言うつもりだった。

どちらも自然(地球環境)の事を解ったつもりで言っている
解ったつもりでなければ「こうだ」とは言えないはずだ。
だから私にとっては、どっちも同じなんだと言いたかった。

「自然の事はよくわからない」

これが正解である。
自然を舐めんなよ!!
そう言いたかったのだけれども、
なんだかグダグダになってしまった。
あーあぁ

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2009年7月 5日 (日)

美人時計

ユニクロックも好きなのだけれど、
美人時計というものが人気らしい。
これを絶賛しているWEBデザイナーとかも見かけたが
ミスコンテストだとかに対する批判のように、
女性の容姿だけを見世物として
1分間の恋と呼んでしまう神経は
21世紀でも通用したんだと、驚いた。
きっと批判が大きくなったら
さっと身を翻す、多くの人々。
こんなオトナを見ていれば、
人を殺そうが、不正をしようが、謝罪すりゃいいし
さらに、誰かが批判を受けている間に、さっさと身を翻せば
自分は安全だってなるわな

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2009年3月13日 (金)

私はネットを信じない

基本的にgmailを使っている。
そのためgoogleがトップページに設定されている。
最近googleでは「急上昇ワード」というのが表示されるようになった。
これが実におもしろい。

3月3日には麻生首相の発言と日付の話題が並んでしまい
さもしい ひな祭り となっていたし
その後も
平野綾 とてつもない日本
など、なんで急上昇しているのだろうと、ついクリックしてしまう。

面白いといっても
興味深いという意味の面白さではなく
面白可笑しくの面白さである。
ネットの急上昇ワードが、その程度の内容であるのには理由がある

それは食だとか、芸能系だとか、アダルト系だとか
そういった、ほとんどの人が全く興味がないということは無いだろうもの
それでなければ多くの人を動かせない。

ネットでは凄まじい人数が見る。
それを操作するには、面白可笑しくしかありえないのだ。
もしくは最初からアクセスが少ないサイトでのアクセスならばありうるかもしれない。
しかし統計学でもわかるように
少なすぎるサンプルでは正しい傾向は出てこない。

最近アート系のサイトが増えてきている。
どれを見ても、駄目だこりゃ感がある。
例えば最初から取り上げるアーティストが偏り
記事数に差が有るのにも関わらず
「人気のアーティストランキング」なんて無意味でしょう。
このあたりをしっかり対策していただけると良いのではないかと思います。

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2009年2月22日 (日)

理系クン

R25の理系特集「隣の理系がワカラナイ」が面白い。
理系の性質を、ほどよく研究し
理系の恋愛感まで取り扱う。
そんな私も理系なので、納得しながら読めた。
良い企画です。ぜひご一読を

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2009年2月 8日 (日)

だから愛なんだって

10代のころ「愛」とか「やる気」「情熱」
なんて言う人は大嫌いだった。
戦時中の教育かよ・・・
だったら愛国心と竹ヤリで戦闘機と戦えってんだ。
それが10年経って、現在
全ては「愛だ」って言い出した。
我ながら解らないものである。

なぜか?
それは
仕事でも
趣味でも
友人関係でも
恋愛関係でも
どのような人・物・事との関係でも
続けていくと必ずトラブルや問題が発生する。
トラブルまで行かなくても、より良くしていこうと思えば
悩まされるに違いない。
どうしたら良いか考える。
悩むことと考えることは同じことだ。

だから全てのことは
そんなに割り切れず
善とか悪とか言えず
真とも偽とも言えないから
延々と悩み続ける・考え続ける他にない。
悩むことは苦しいことである。
出来ればやめてしまいたい。
だから、どこかで解ったことにして打ち切りにしたり
そもそも関係を終わらせてしまったりする。

そんな苦しい関係性を維持しようとする
いつも嫌な思いをして
愚痴って
怒って
嫌って
泣いて
喚いて
憎んで
叫んで
時に目をそらして
忘れようとしてみたりもして
逃れようとしたりもする。
それでもやめない
もしくは
やめることができない

それは何ゆえか

愛としか呼べない。

愛するものを
嫌うことも
憎むことも
時に無視することさえも
愛の一面なのだ。

やめる決断をすることさえも
最高に濃い愛だと思うし
やめた後でさえ
いつか、思いを振り切れず戻ってくるかもしれない
そんな可能性がある限り
すなわち
死が人生を強制終了する瞬間まで
愛なんだと思う。

そんな愛に溢れた関係性の中で生まれた作品(物?人?事?)に私は感動する。

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2009年2月 4日 (水)

LOVE is ALL

どんなことも

どんなものも

喜びよりも

圧倒的に苦しみが多い

それと戦うのは

愛が全てだし

愛しか方法も思いつかない。

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2009年2月 3日 (火)

素材主義

負ける建築という言葉が流行ったので、どうしても安易に使いたくなってしまうのだけれど
ようは素材、要素が大事だということ。
これは金融資本主義みたいな実態もなく
一部の現代アートのような技術は無くてコンセプトだけみたいな
それらにコリゴリした我々が
その反動で逆側に振れているだけだと思う。
しかし我々は人間であり
肉体を持っていて
その肉体はヒトなのである。
であれば、素材を無視して色々と出来るわけが無い。
そう考えたとき、私達の世界観はどうしても繋がっているので
それがあらゆるジャンルに飛び火する。
WEBも然り。
情報さえあれば良いというのであれば
WEBは部数の制限もなく
空間の移動も不要であり
流通コストもかからない。
エコロジーでエコノミーである。

それでも我々は紙のメディアを捨てない。
むしろ益々紙メディア自信を愛している。

表層的なWEBと肉体を伴った紙メディア
これは全く違うものである。

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2009年1月30日 (金)

さようならピンマグ

pingmagというサイトをご存知だろうか。
東京を中心に、かなり幅広く
アートやデザインについて面白い情報を発信していた。
それが2008年いっぱいで休刊になっていた。
昨年はアートビートの関西版も休止になったりと
不景気の波をモロに受けたような雰囲気。

しかし、私は思う。
不景気はそれほど大きな要因じゃない。
ある決定とは
99%の内部要因と
1%の外部要因による。
とまで言うと言い過ぎかもしれないが
すでに「やめたい」という思いがあったところで
やめるに相応しい事由が出てきただけだと思う。

あれだけのクオリティで
しかも元々広告もそんなに無かったし
というかネットでの広告ビジネスは
とても成功事例が少ない。
最初から、それほどの経済的成功は期待していなかっただろう。
だから経済的な失敗も理由にはならないはずだ。

お金にならなくても何かを続ける。
その大変さを知っているだけに、責める気持ちは一切無く
本当にお疲れ様ですと思うのではあるが
「やめてしまう」
この1点において、彼らのパッションは冷めてしまうような
そんなものだったのかとガッカリもする。
再開を待ちたいが
休刊して、再開したものってどれくらいあるのだろうか?
私は一つも知らないのだけれど。

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2008年12月30日 (火)

無限の彼方

分裂勘違い君劇場」というブログをみつけた。
とても極端な認識ではあるが、そのぶん面白いし、解りやすい。
極端な話というのは無限の世界と似ているなと思う。
無限というのは、理論・理屈・計算ではそうなると理解できるし、多分そうなるのだろう
しかし無限というのは、物理的に不可能なので、実現することはできない。
理屈だけで、実現できないというのが極論と似ているのだろう。

極論は非現実で特別な状況だと思う。
同じように無限の世界では特別なことが起こる。
0.9999・・・・・と無限に続く数
1に近づいて、でも1には触れない漸近線を思い浮かべてしまう。
しかし無限での証明では、これは1に等しくなる。
証明は
0.999・・・をAとすると

A=0.999・・・
10A=9.999・・・
10A-A=9.999・・・-0.999・・・
9A=9
A=1

となる。
絶対に重ならないと思われていた線が重なる。
無限の彼方では特別な事が起こる。
重なることの無いはずの線も重なる。
この事は
解り合えない人も、もし無限の時間と根気があれば必ず分かり合えるのだと
絶対分かり合えないものは無いのだという夢を与えてくれる。
私達はそれを待てないだけなのである。

無限であり、極論であるから実際には無理だと笑われるだろうか

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2008年12月 2日 (火)

ネットリテラシーとシステム論

アクセスランキングに「ネットの信頼性」が上がってきた。
ネットだけのメディアをどこまで信頼してもいいのか。
その信頼を担保するものは何か。というような事を書いた。
まぁ、それについてではないのだけれどネットリテラシー繋がり。
先日、仕事の相手から驚くべき発言を受けたのだけれども、みなさんはどう思われるのか?
それは自社のリーフレットに掲載する文言や写真をネットから取るということ。
おそらくバレないから大丈夫であろう。
しかし、そのとき担当の方から自信満々で放たれた言葉は「使ってはいけない写真や文は勝手にコピーできない仕組みになっているから、コピーできると言うことはコピーしても良いという意味ですから」と言うのだ。
単にコピーを一切禁止にするための処置の方法などがわからないだけかもしれないし、そもそも「駄目」と明記されない限りは「OK」と解釈する都合よさに驚いた。
これは犯罪でなければ何をしてもいいと、マナー違反が横行する世の中をそのまんま表しているように思う。
システムが発達するほどに人は駄目になっていく。
システムによって線引きがされると、そのラインの限界まで活用しなければ「損」だという意識や、ラインのこっち側は公式に「認められた権利」だと主張するのだ。
それによって手前で自粛していた善意は、ラインぎりぎりまで大手を振って行くことが可能になる。
システムがなければ無茶苦茶な社会になるし、システムが出来るほど、人が駄目になり、さらにシステム化を必要とするジレンマ。
社会の常識が常識として機能しないようになりつつある現在では、新しく、また変化の激しいネット社会は現実社会に共有された常識も、あって然るべきのシステムもない。
益々社会は疲れる仕組みへと邁進している。

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2008年11月16日 (日)

冷静と情熱の間しか無くないか?

内田樹さんのブログを最近になって読み始める。今日のような休日にまとめて読もうとするとすごく疲れるし、読みにくい。ブログって読みやすいですか?只だから良いけれども、お金を出してまでは見たくない。やっぱり本を買うなぁと。
ネットの内容にヒトはそんなに影響をうけますか?
影響をうけなければCMの効果は広告代理店の大本営発表に言いなりで、うける事として処理しますか?
なんだか私の周りで「ポータルサイト」を作ろう、もしくは作ったらどうかという話が増えている。
個人的には2,3年になるどうか?ライブドアがが行け行けゴーゴー!という時代の話に聞こえて仕方がない。
ネットバブルに浮かれたボケが、バブル崩壊して冷静になったけれども、また金融やら新興国によるバブルで、戦後最高の好景気というものでボケているんじゃないのか。
そしてその好景気も躓いたので、もうすぐ冷静になるのだろう。
情熱というのはボケである。馬鹿でもいいんだけれど。愛が情熱的になれば「色ボケ」「バカップル」と呼ぶし、他にも「○○キチガイ」「○○狂い」「○○信者」なんて言い方もする。
ヒトは何故こんなにボケやすいのか。でも平和ボケしていられるのはとても幸福なことであるので、ボケは幸せと平和の証だから嫌う必要はないという面もある。
webの未来について考える。面白いことが出来るのではないか。可能性を信じている。信じる根拠はテレビやラジオの視聴時間は横ばいか低下しているのにインターネットの閲覧時間は延び続けているからだ。
そして端末&アクセス方法の多様化&廉価化によって普及もますます進むだろう。
しかし内容はとてもつまらないままだ。
むしろ紙に劣るメディアになりつつある。
それは先日より書いているように「出会い」を生みにくいと言う事だけではなく、紙で出来ることを、単にコスト削減だったり、届け方が物理的制約をうけないというメリットで使われている程度だからであろう。
ネットでしか出来ないものがWEB2.0ではガッカリだ。
そうは言いつつも、結局なんだか緩やかに全てが融合していくように見える。
幸せという価値軸では貧困も裕福も大して影響力を持てず。
資本主義は破綻して、公的資金の流入で社会主義化が進み、社会主義はとっくに少しずつ資本主義のDNAに侵食されている。
男と女もなんだか似たような性向を示し。
メディアもそれぞれの利便性をつきつめると言うよりは、適度にミックスして効果を狙う。
ストイックという価値観が消滅していって「効果原理主義」に世界は一極集中してきている。
それ以外では他人を納得させることが出来ず、益々単一の物差しを必要としている証拠こそが「これからはコミュニケーションの時代」ということだろう。コミュニケーションは嘘だ。単に通じるかどうかという話をコミュニケーションを呼んでいるに過ぎない。
もう全部ぐだぐだになっているから厳しいという概念も出番が減っていくだろう。
均質化、均一化しているとしか思えない時代。
エントロピー増大の法則ですね。なんて科学法則を当てはめて、わかった気になっても仕方が無い。
システムは生命や生態系、キャッシュフローを考えればわかるように、流れていて初めて生きるのだ。
流れこそがシステムであり、流れこそ活力である。
では流れはどのようにして起きるのか。それはご存知のとおり高低差や密度差によって起きる。これを富や権力の高低差・密度差と読み替えてもらっても良い。
差別をしようとか、二極化を進めようなんてかけらも思わない。
しかしこの平等であり、均質になろうとしている世の中は、自らの内にでも高低差や、何かエネルギー源を持たなければ、どんどん淀んでいく。
実は極端な話、冷戦だとか戦争だとか、貧困と裕福などの強烈な二項対立のようなものがある方が社会システムは安定するという悲しさ。
それを歓迎するわけには行かない理性の苦しみ。
問題点の列記は限りなく多い。
しかし問題の解決が、新しい問題を2つ以上生むのであれば解決せずに放置するというのもまた正解である。
それを抽象的に表せば「所詮は、お釈迦様の手のひらで踊るような」ものであり、我々は真理に近づいた訳でもなく、何かを変えることが出来たわけでもないと斜に構えて言うしかなくなる。
冷静とボケの間を行き来するのは、そうやって何処かにある富をマーケットは吸い込み、また何処かへ吐き出すという命の呼吸なのかもしれない。

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2008年11月12日 (水)

ネットの信頼性

インターネットの情報を信頼している人が多すぎる。
ネットの内容は基本的には無責任であるのだ。責任というのは個人に帰属する。
企業の責任は経営者に帰属する。経営者は必ず個人である。
ネットは匿名性の世界だ。だから個人と言うものは基本的に「石沢三郎のブログ」とか「石沢商事HP」というものでなければ責任の所在は失われる。
だからこそ後ろめたいような、売春・買春などの出会い系には持って来いのシステムである。
しかし、それ以外での出会いを生むことは無いように思われてならない。
インターネットが世界に繋がっているというのも大きな勘違いだ(特に日本語がメインの場合)。
それでも新聞社などのHPの信頼性が高いのは、紙媒体を発行する信頼できるニュースソースだと言うことがバックにあるからであり、ネットオンリーのニュースソースと一線を画する。
はずだったのだが、最近はどうにも違うらしい。
仕事仲間などを見渡すと、ネットの情報に対する認識力が著しく落ちているように感じる。
ウイキペディアなど実名を持たない個人が編集できる情報ソースを信頼してしまうのだ。信頼の仕方には色々あるのだが、例えば「アマゾンの書評」「カカクコムのレビュー」「インターネット辞書」「2ちゃんねるだとかの掲示板」「WEB2.0に代表される相互的なもの」これらはやろうと思えば操作可能なものなのだ。
実名を持って運営されているものでさえ間違いは起こる。
それなのに実名を持たないような物を信じるなんて・・・・実名を持つという事は、そこに責任者がハッキリと明示され、その発信元に対して確実にクレームを言い、それに対する説明を要求でき、それに真摯に応えるシステムが用意されている事を指す。
攻撃してくれと個人が身をさらしているからこそ信頼できるのだ。安全な位置から、好きな発言をしている人間を信頼できるわけが無い。
ネットリテラシー(情報リテラシー)をもう少し身に着けてほしい。
長くなったがネットの信頼だとか、リテラシーの問題を取り上げたのは、友人から最近教わったサイト「虚構新聞」がすごく面白くて紹介しようと思ったからである。
普通に読んで大笑いした。考えるに面白さの源泉がリアリティであり、ありそうでありえない、というキワどさの中にあると思ったからである。
ネットの嘘と本当というのは何なのかリアリティがリアルになってしまう事に対する問題。
虚構によって現実が生成される怖さが笑いの中に潜んでいる。

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2008年10月23日 (木)

WEBマネージメント

「ホームページは儲かる」なんて妄信して猛進していた時代は、随分古くなった。
「ブログ時代の口コミマーケティング」やら「ロングテール戦略」なんて言葉もすっかりと定着し「WEB3.0は?」なんて事が語られている。
実際に今日現在、有効なWEBのマーケティングはWEB2.0やブログの口コミ(ブログ)であろう。
それらは何によって形成されるのか。それは「内容」「コンテンツ」である。これを面白いものにすれば口コミなどは自然と付いてくる。コンテンツ勝負の時代と言うことだ。これはとても良い事だと思う。少し前までFLASHを多用して、カッコイイ、見た目重視系のサイトが多かったのが、ほとんど転んで、成功しているグーグルを初めシンプルな方向へシフトしている。
それからメディアミックスも進んでいる。「ネットとテレビの融合」という騒ぎも記憶から薄らいできたが、確実にそれは進んでいる。というかそれが無ければWEBサイトは無意味。WEBサイト作りますというような企業は信頼できない。WEBは最後で良い。なぜかと言うとWEBというのは信頼性の最も低いメディアだからだ。新聞社のHPに掲載されている情報の信頼度が高いのは紙メディアを持っているからであることを考えればわかりやすいだろう。
良いコンテンツを作り、そして程よいメディアミックスをつくる。これらのバランスが寛容なのである。
実はこれらは金澤アートイベントカレンダーの中西編集長の受け売りである(しかし第三者がこうやって褒めているのでネタにしたのは許してください)。
中西さんはこれらを実践して、順調にアクセス数及びグーグルのページランクを伸ばしてきている。
最初に北陸(主に金沢)のアート情報のポータルサイトを作ろうと考えていたらしい。その考えを現在の形にシフトさせた理由は「ポータルサイトの乱立と淘汰がやって来ると思っていたが、乱立の後は全滅だった」と言うことらしい。結局は検索エンジンの技術革新によって、検索サイトがポータルサイトの地位と必要性の大半を食ってしまったのだ。例えば各美術館やギャラリーの情報はそれぞれの美術館・ギャラリーのサイトに掲載されている。それは当然自前であるから「信頼性」「迅速性」がダントツに高い。どんなに良いシステムもこれには勝てない。
と言う事は検索サイトが、あるキーワードを元に各美術館・ギャラリーのサイトに優先順位をつけて一覧にしてくれるというのは「信頼性」「迅速性」は当然ながら検索キーワードを変えると色々とフィルタリングが自分で作れる「汎用性」の高さもダントツなのだ(カテゴリーやフィルタリングなどから選ぶのと違い無限の選択肢なのだから)。
だとすればポータルサイトの地位は検索サイトに譲るしかない。やはりここでも「コンテンツ勝負」がキーワードになる。そんなコンテンツ勝負の時代にWEB2.0的な「誰でも書き込める」「誰でも編集できる」というシステムが、いかに信頼性が低いか、そして情報が過多になったときに、只でさえ一覧性においては紙メディアなどに大幅に劣るWEBがそんなでは玉石混交で結局は、悪化は良貨を駆逐するという結果となるだろう。
「見た目の良さ」や「情報量の多さ」はグーグルを超えた時にだけ意味を持ち。そのサイトでさえグーグルで検索されるという構造を考えれば無力だというのは自明である。
結局は内容のクオリティに掛かっているのだ。メディアが無限増殖すると言う事はこうやってコンテンツ(文章)を考える我々ライターにこそお金をかけるべきで、(WEB)デザイナーにお金をかけても無駄ですよ。という宣伝がオチでした。

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2008年8月27日 (水)

google page rank

当ブログは今日現在グーグルのページランク2である。

特に宣伝も無く、どこからリンクされているのか、さっぱり解らないがランク2というのは凄いのだろうか、それとも大体ランク2くらいは、ほっといても行くのか。調べてみると

<Googleのページランク目安>
Rank 0:出来たばかりのサイト、もしくは被リンクをほとんど得られていない
Rank 1:検索エンジンからの認識はあるが、アクセス数の低調なサイト
Rank 2:個人サイトとしては平均的なレベル
Rank 3:多くのサイトから被リンクを得ており、個人サイトであればそこそこ優秀

ということなので平均ということらしい。

平均と言われると不満なようであり、そして安心もする。

まぁこのブログのランクは高くないほうが良いのだけれども

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2008年8月26日 (火)

トラックバック

トラックバックという機能を初めて利用した。

どんなものかと思っていたが、なんともアッサリしたものだった。

WEB2.0は本当にやりたい放題できる。

編集者の居ない無法地帯と言わざるを得ない。結局、何となく聞かれなくなってしまった(寂れた)のはそんな理由だろうと思う。

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2008年8月18日 (月)

本物

本物と普通とでも言おうか。

「闘うデザイナー」だとか「闘う料理人」だとか「闘う○○」という風に言う人が居るが、私はこれに違和感を覚える。闘っていない人なんて居るんですか?

公務員は全員闘っていない。主婦もなにとも闘っていない、ホームレスも闘っていない。そういう事なのか。

いや僕の言う「闘う」は違うんですよ!と言われても闘い方だって、闘う対象だって人によって違う。だから「闘う」と言う言葉が人と違うなんていうのは、当たり前である。それを限定するなら「施主と闘う建築家」とか限定するべきだ。

生きている人間は全員闘っている。自分と、老いと、社会と、、、、、だから「闘う」なんて言葉を付ける必要は無い。闘うということは本当はもっと静かで、辛く、苦しい葛藤のようなものだ。それを言葉にする=客観化して、さらに他社に共有してもらおうと名乗るなんてありえない。「闘っている自分の理想像」に酔っているだけか、闘っていない自分を恥じて、それを隠蔽するのに必死なのかと勘ぐってしまう。

昨日、ある女性の画家さんとお話をした。よく金沢城でスケッチをしているというので、私は安易にも「それじゃ金沢城の植物展とかそお言うテーマで個展をしたらいいんじゃないですか」と言ってしまった。

それに対する彼女の答えは「NO」。

そうすれば「地元の事を愛しているいい人」だとか「郷土ネタとしてメディアも扱いやすい」だとかメリットは山ほどある。しかし彼女は自分の絵を見てほしいと言う。絵で勝負するのだという。

私は感動してしまった。

最近は「地産地消」だとか「郷土野菜(石川では加賀野菜)」、他にも仲間になるのは「ロハス」「エコ」「食育」など。そういった言葉を武器にして闘うやからが多い。

まるで流行に乗っかり、実力よりもそういった二次的なものが主役なような振る舞い。

画家は絵で勝負する。料理人は味で勝負する。

そういった本来の姿が失われているように思う。もちろんそんなつもりは無くて「絵」プラス○○、「味」プラス○○でしていたのが段々ウエイトの置き場所が歪んでしまい、本末転倒する。だから彼らは自信を持って、疑いも無く自分を本物であると考えている。

だから全員が本物かと言えば、そうではないのは自明であろう。

画家の実力は郷土愛の深さと別に観なくてはいけない。

画家は郷土を描くから取材されるのではなく、絵の良さを取材されるべきである。

「地元野菜を使った○○」とか「本物の○○」とか「闘う○○」とかは、本質的な実力や作ったものの素晴らしさを消し飛ばすくらいに人間としての卑しさが滲み出ている。

ビジネスだから仕方が無い?

仕方ないという言葉は妥協したということであろう。それをもって「闘う○○」と言う無かれ。

ビジネスをするのは良い。儲ける商いも良い。しかし「何が悪い」と堂々と言うほど偉いものでもない。

尊敬できる大人が少ないものだ。

本物/ホンモノとは

偽物/偽者とは

普通/それ以外とは

あなたはどうやって生きていくのか。

私はホンモノだろうか。

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2008年7月21日 (月)

GMAILからの提案

GMAILをお使いの方は解ると思うのだが、メール機能の上の端に広告やニュースが掲示される。それはビジネス上のものなので理解できるのだが、先日新しい表示を見た。

「○○ニュース」や「広告」といったカテゴリーに新しく「リサイクルのヒント」というものが加わっていたのだ。googleのGMAILでの環境保護の取り組みなのだろうか。誰も得をし無さそうだし・・・・

まぁ、その程度の事はどうでもいいのだけれども、その提案の無いように驚いたのだ。

「フィルムの容器は、くぎ、ねじ、ボタン、ピンなどの入れ物として再利用できる。」

え!?今更フィルムですか!?最近見ないですよ。いまどきの子供はデジカメしか知らないからフィルムって何のフィルム?と混乱しますよ?

しかもこの提案がデジタル社会の牽引役であるgoogleからなされているのに衝撃を覚える。しかも再利用の内容がまた・・・・まんまじゃん。

そんなこんなで、一体これはネタなのか、狙いなのか、真剣なのか、それとも・・・難しいものである。

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2008年3月 3日 (月)

ブログはタダの日記ではない

ブログが日記と圧倒的に違うところ。

それは他人のアクセスがあるところ。

と当たり前の事を書いても仕方ないのだが、アクセス解析が出来るのは面白い。

先ほどチェックしたところ「環境偽装で意外な影響?」「デスノート」の両日が同点トップであった。なんでだろうかと考えると「環境偽装~」では城山三郎氏のお名前が載っており、「デスノート」はそのタイトルに導かれて来たのではないかと思われる。

結局ネットの世界は情報の量が多すぎて、公開していても誰も気付かない。有名人の名前や映画、漫画の名前などでファン同士が繋がる程度である。だから私はアブナイ発言をしても特に問題にならないと考えている(最近はちょっと過敏すぎる)。

結局は検索エンジンに導かれて動くのだけれども、当然検索した言葉を中心に動く。それは自分の興味の在るところへ導かれると言う事であり、その興味の内容がバレている他社が広告や紹介でさらに導いていく。それは予測されたルートに近く、じつは偶然ではなく誰かの意図の下で動いているように感じて仕方が無い。

ネットの世界は自分で選んだつもりでコントロールされる恐ろしい世界だ。

「偶然の出会いの無い世界」

安全と見るか、危険と見るか。

さて城山三郎、デスノートと両方記載された本日のブログは、やっぱり人気が出るのか。

そこに更に「村上春樹と村上龍だと、どっちが好き?」とか「プロのテクニック教えます」「あさって美人女子大生がふたりで話を聞きに来る(ホントに来る)」なんて書いてあるとアクセスは伸びるんだろうな。

でも、お目当てに当たらず結局は読まない。となるとブログはタダの日記かもしれない。

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2008年2月16日 (土)

私は もう いません

昨日から出張に出ています。

出張に出る前に公開の日時を指定してアップしたのだ。もしかすると表示された瞬間にはもう私は居ない可能性もある。

まるで星の光の話のようだと思った。太陽の光は実は8分前に放たれたものであり、太陽が消滅しても8分間は私たちは気付くことも無い。それが何光年も離れた星であれば、無くなっているのに何年も見え続ける。

私はその話を聞いたとき、切ない気持ちになった。

距離がありとあらゆるものの間に存在することの孤独さ。

この文章を書いている今と公開されている今の間に、私は長い距離を移動しているだろう。打ち合わせに行く、すなわち人に会いに行くのだが出張は寂しい(出張をよくされる方はお解かりだと思う)。

時間と距離。

ITはそれらを超えると言うが、10光年先の友人からの返事は往復で20年かかり、過去へ影響を与えることも出来ない。未来へ影響を与える事は可能であるが、それゆえ「未来への責任」を私たちは負う。しかし未来からの返事を受け取る事は出来ない。

今日環境保護など善意で行われたアクションが、めぐりめぐって偽装や偽善と10年後言われるかもしれないが、その返答を受け取る事は出来ない。

健康・環境・教育などには良いと言う事が本当にありえるのだろうかという私の疑問へも答えが帰ってこない。

帰ってこないと知りながらも思い、何かをしようとするのは愛ゆえなのだが受け取る者にとっては迷惑かもしれない。

時空警察ならぬ時空ストーカーだ

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