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2009年7月 9日 (木)

色々考えるなぁ

なーんか突っ込みどころの多い事件だ

■女高生の自転車に“わいせつ当たり屋”教諭

 宮崎県警は9日、同県西都市三宅、県立日向工業高校教諭甲斐正直容疑者(39)を強制わいせつ容疑で逮捕した。

 発表によると、甲斐容疑者は6月27日午後10時頃、宮崎市新名爪(にいなづめ)の歩道で、市内の高校に通う女子生徒(16)の自転車の前にわざと飛び出し、衝突。「足が痛い。もんでくれ」などと言い、自分のズボンと下着を下げさせ、下腹部を数十分間マッサージさせた疑い。

 女生徒は気が動転して言われるままにしたが、帰宅後に母親に相談し、県警へ被害届を出した。

 甲斐容疑者は高校で保健体育を担当。この日は夕方まで学校で勤務していたという。渡辺義人・県教育長は「教育への信頼を著しく損なうもので遺憾。事実関係を把握し、厳正に対処したい」とのコメントを出した。

(2009年7月9日19時51分 読売新聞)

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2009年4月 5日 (日)

デジデジ詐欺

虚構新聞の「デジデジ詐欺にご注意」という記事が面白かった。
詐欺行為は
詐欺師がするから詐欺(犯罪)であり
法に則って行えば「正しい」行為となる。
法律というのは、それくらいヒヨワなのだ。
それでも
「犯罪は悪い事」と声高にいう人が居る。
それは間違っていない。しかし、その心には
犯罪じゃなければしても良いという思いが一体となって付いてくる。
犯罪は悪い事ではなくて、悪い事は悪い事なのだ。
犯罪じゃなくても悪い事はある。
そんな事もわからないのかと言いたくなることが多い。

法律に頼ってはいけないのだ。
そんな法律を是とし行使するのは実は悩み無き御馬鹿さなのだ。
御馬鹿が裁くのである。
死刑を肯定する事は到底できない。
しかしレジ袋有料化と同じく
真の正しさによらない社会のメカニズムにより死刑も廃止される事はないだろう。
そして今度は時効さえも無くなるかもしれない。
まぁ時効に関しては無くなってもいいけど

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2009年3月 6日 (金)

さようなら山蓄

石川県民ならお馴染みの音楽屋さん
山蓄が操業停止に追い込まれてしまった。
昨年大きめな店構えだったタワーレコードも予約受付窓口と呼びたくなるほど縮小済み。
これで石川県内で新発売ではないCDを探すのは極めて難しくなった。
それだけではない。
音楽ファンを探しにくくなったのだ。
これまで音楽イベントの告知をするには、こういった音楽屋さんでチラシを配布したり、ポスターを貼っていた。
そういった場所が無くなる事で、実は目に見えていなかった情報ライフライン=コミュニティが完全に死んでしまったのだ。
浪曲や謡をする方から、ジャス、ロックの人までが「袖触れ合う」程度で良いから
すれ違う場所が無いと、出会いは生まれにくくなる。
長期的な視野で見ると、確実に石川の音楽文化は衰退する。

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2009年2月 8日 (日)

だから愛なんだって

10代のころ「愛」とか「やる気」「情熱」
なんて言う人は大嫌いだった。
戦時中の教育かよ・・・
だったら愛国心と竹ヤリで戦闘機と戦えってんだ。
それが10年経って、現在
全ては「愛だ」って言い出した。
我ながら解らないものである。

なぜか?
それは
仕事でも
趣味でも
友人関係でも
恋愛関係でも
どのような人・物・事との関係でも
続けていくと必ずトラブルや問題が発生する。
トラブルまで行かなくても、より良くしていこうと思えば
悩まされるに違いない。
どうしたら良いか考える。
悩むことと考えることは同じことだ。

だから全てのことは
そんなに割り切れず
善とか悪とか言えず
真とも偽とも言えないから
延々と悩み続ける・考え続ける他にない。
悩むことは苦しいことである。
出来ればやめてしまいたい。
だから、どこかで解ったことにして打ち切りにしたり
そもそも関係を終わらせてしまったりする。

そんな苦しい関係性を維持しようとする
いつも嫌な思いをして
愚痴って
怒って
嫌って
泣いて
喚いて
憎んで
叫んで
時に目をそらして
忘れようとしてみたりもして
逃れようとしたりもする。
それでもやめない
もしくは
やめることができない

それは何ゆえか

愛としか呼べない。

愛するものを
嫌うことも
憎むことも
時に無視することさえも
愛の一面なのだ。

やめる決断をすることさえも
最高に濃い愛だと思うし
やめた後でさえ
いつか、思いを振り切れず戻ってくるかもしれない
そんな可能性がある限り
すなわち
死が人生を強制終了する瞬間まで
愛なんだと思う。

そんな愛に溢れた関係性の中で生まれた作品(物?人?事?)に私は感動する。

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2009年2月 4日 (水)

LOVE is ALL

どんなことも

どんなものも

喜びよりも

圧倒的に苦しみが多い

それと戦うのは

愛が全てだし

愛しか方法も思いつかない。

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2009年1月21日 (水)

説得力

「リアリティより説得力」
これが最近思っている事である。

本日オバマ氏がアメリカ大統領に就任した。
彼の演説に注目が集まり
演説の上手さが評価されている。
演説というのは説得力である。

ここでもやはり「説得力」だ。
説得力はかっては政治家の演説ではなく
僧侶の説法であった。

説得力=神(仏)

だったのだが、それも今は
神は死んだという言葉があるように
神から科学へとシフトしてしまった。
この

説得力=科学

というのは、ただ神が科学に置き換わっただけである。
ニーチェがしたように
もしくは科学の不完全性があるように
最終的には人間がすることであるため

説得力≠真実

であることは変わらない。
(リアリティが本物ではないのも同じ)
結局、我々は真実(本物)を手に入れようと必死なのだ。

しかもそれが手に入ってないのに
暫定的に、それ(神⇒科学、演説)によって
人々に真実(本物、正義、安全、環境に良い、善、etc)だと信じ込ませている。

信じ込ませる。
それが説得力。

「信じるものは救われる」
どう受け取る?

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2009年1月13日 (火)

解答はシンプルに

1/3しか無ければ3倍に

目の前の資源に併せて対応する。
なんてシンプルな解答だろうか。
という訳で、コメントもシンプルに

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2008年12月29日 (月)

「いいひと」は迷惑です

なんだか、少しアクセスが増えていた。
おそらく「さんま・福澤のホンマでっか!?ニューススペシャル」の性ではないかと思う。
私は飲み会に行っていたので、この番組見ていないのだけれども、内容にいくつかエコの問題を、テレビの普通とは逆の方向で解説されていたらしい。

まぁ、そんな事はどっちでも良いのだけれども
本当に世の中には「いいひと」が多くて困る。
もう少し正確に言うと
「善いことをしたい人」
もしくは
「自分を善い人だと思い込無のではなく、本当にそうだと思い込んでいる人」
彼らは私からすると、とても迷惑な人である。
基本的に「いいひと」が嫌いである。
彼らは「みんなで」しようとする。
すなわち常に自分は正しいと確信しているのだ。
正しくないかもしれないと疑う能力が欠落している。
きっと、そおいう人は自分の頭で考えていないと私は決め付けている。
そうでもしないと説明が付かない。
だって自分で考えていれば「みんな」同じ考えに至るわけが無い。
それは、景気回復には
<消費税アップ>そのかわり住宅などの最低限の生活保障をする。生活不安が不景気の原因だから。
と考える人
<消費税ダウン>それによって消費を刺激して不景気対策をする。
と考える人。
同じ時代に生きて
同じ社会現象にぶつかっていて
同じくらい正しいと思われる。
それでも真逆の結果に至る。
いいひとは、浅はかなのだ。
きっと戦争が始まれば、喜んで戦地に家族を送り
より多く殺してきたことを褒めるようになるだろう。
私は戦争を起こすのは、いつも「いいひと」だと確信している。
むしろエゴイストや悪人だけが戦争を止める事が出来るのだと信じている。
しかし「いいひと」こそが本当のエゴイストなのだ。
エゴイストや悪人は、むしろ、その社会的な役割を担わされている本当の善い人なのだ。
今回、わざと複数の、さらに真逆の意味で「いいこと」や「善い人」「善人」を、ごっちゃにして書いた。
書き分けるのが面倒だっただけなのだが
世の中には賢くない人(と自ら思っている人)は居ないのでキチンと読んで下さい。

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2008年12月26日 (金)

命より大切なもの

高校生が携帯電話を忘れたといって燃える家に戻り亡くなったらしい。
信じられないが事実である。
命がけで守るものが「携帯電話」だったとは。
彼にとっての携帯は友達の象徴だったのか、それとも恋人の象徴だったのか

かって侍は火中で守るべき絵などは切腹して、腹の中へ入れ、自分の身を耐火金庫のように使って守ったなどという話もある。
また「お家」の名誉の為に喜んで死んだりもした。

私達は命より大切なものなんて持っているのだろうか

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2008年11月16日 (日)

冷静と情熱の間しか無くないか?

内田樹さんのブログを最近になって読み始める。今日のような休日にまとめて読もうとするとすごく疲れるし、読みにくい。ブログって読みやすいですか?只だから良いけれども、お金を出してまでは見たくない。やっぱり本を買うなぁと。
ネットの内容にヒトはそんなに影響をうけますか?
影響をうけなければCMの効果は広告代理店の大本営発表に言いなりで、うける事として処理しますか?
なんだか私の周りで「ポータルサイト」を作ろう、もしくは作ったらどうかという話が増えている。
個人的には2,3年になるどうか?ライブドアがが行け行けゴーゴー!という時代の話に聞こえて仕方がない。
ネットバブルに浮かれたボケが、バブル崩壊して冷静になったけれども、また金融やら新興国によるバブルで、戦後最高の好景気というものでボケているんじゃないのか。
そしてその好景気も躓いたので、もうすぐ冷静になるのだろう。
情熱というのはボケである。馬鹿でもいいんだけれど。愛が情熱的になれば「色ボケ」「バカップル」と呼ぶし、他にも「○○キチガイ」「○○狂い」「○○信者」なんて言い方もする。
ヒトは何故こんなにボケやすいのか。でも平和ボケしていられるのはとても幸福なことであるので、ボケは幸せと平和の証だから嫌う必要はないという面もある。
webの未来について考える。面白いことが出来るのではないか。可能性を信じている。信じる根拠はテレビやラジオの視聴時間は横ばいか低下しているのにインターネットの閲覧時間は延び続けているからだ。
そして端末&アクセス方法の多様化&廉価化によって普及もますます進むだろう。
しかし内容はとてもつまらないままだ。
むしろ紙に劣るメディアになりつつある。
それは先日より書いているように「出会い」を生みにくいと言う事だけではなく、紙で出来ることを、単にコスト削減だったり、届け方が物理的制約をうけないというメリットで使われている程度だからであろう。
ネットでしか出来ないものがWEB2.0ではガッカリだ。
そうは言いつつも、結局なんだか緩やかに全てが融合していくように見える。
幸せという価値軸では貧困も裕福も大して影響力を持てず。
資本主義は破綻して、公的資金の流入で社会主義化が進み、社会主義はとっくに少しずつ資本主義のDNAに侵食されている。
男と女もなんだか似たような性向を示し。
メディアもそれぞれの利便性をつきつめると言うよりは、適度にミックスして効果を狙う。
ストイックという価値観が消滅していって「効果原理主義」に世界は一極集中してきている。
それ以外では他人を納得させることが出来ず、益々単一の物差しを必要としている証拠こそが「これからはコミュニケーションの時代」ということだろう。コミュニケーションは嘘だ。単に通じるかどうかという話をコミュニケーションを呼んでいるに過ぎない。
もう全部ぐだぐだになっているから厳しいという概念も出番が減っていくだろう。
均質化、均一化しているとしか思えない時代。
エントロピー増大の法則ですね。なんて科学法則を当てはめて、わかった気になっても仕方が無い。
システムは生命や生態系、キャッシュフローを考えればわかるように、流れていて初めて生きるのだ。
流れこそがシステムであり、流れこそ活力である。
では流れはどのようにして起きるのか。それはご存知のとおり高低差や密度差によって起きる。これを富や権力の高低差・密度差と読み替えてもらっても良い。
差別をしようとか、二極化を進めようなんてかけらも思わない。
しかしこの平等であり、均質になろうとしている世の中は、自らの内にでも高低差や、何かエネルギー源を持たなければ、どんどん淀んでいく。
実は極端な話、冷戦だとか戦争だとか、貧困と裕福などの強烈な二項対立のようなものがある方が社会システムは安定するという悲しさ。
それを歓迎するわけには行かない理性の苦しみ。
問題点の列記は限りなく多い。
しかし問題の解決が、新しい問題を2つ以上生むのであれば解決せずに放置するというのもまた正解である。
それを抽象的に表せば「所詮は、お釈迦様の手のひらで踊るような」ものであり、我々は真理に近づいた訳でもなく、何かを変えることが出来たわけでもないと斜に構えて言うしかなくなる。
冷静とボケの間を行き来するのは、そうやって何処かにある富をマーケットは吸い込み、また何処かへ吐き出すという命の呼吸なのかもしれない。

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2008年11月14日 (金)

チャンス

「関東大震災はチャンス」と兵庫県知事が言ったそうである。
その考え/思いはわかるが、まともな大人が口に出すだろうか。
政治家の言葉は商売道具であるはずだ、それに対して考慮が無さ過ぎではないだろうか。
言論の自由と言うのがあるけれども、それは「何を言っても良い」という意味なのだろうか?
私が思うに正しい人間は居ない。
全員が間違えている。
しかし全員が完全に間違えている訳でもない。
それぞれの言い分に正しい部分もある。
それらを照らし合わせて、物事をより複眼的に見る。立体的に見る。多角的に見る。そうやって大きく間違えないようにする事が大切だと思う。
問題発言に対して謝罪が行われたそうである。
誤りに気づけたのであれば彼は少し多角的に見ることができるようになったと言える。
しかし「批判が多いから、とりあえず謝って置くけれども俺は間違えていない」と思っているのであれば愚か過ぎる。孔子曰く「過ちを改めざるが過ち」である。
どうせ全員間違えているのだ。間違えの程度の差でしかない(今回の程度はあまりにも酷いが)。
間違えた発言をする自由が無ければ、正される権利を失う。
「常に俺が正義/真理だ」と言う人は、批判されはしても利益は無いので、この言葉を贈る「沈黙は金」

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2008年9月13日 (土)

違いのわかる男

こんなニュースを見かけた。

なんだか、何が変わったのか良くわからない。
そっくりである。
似ているものに似ているは似てないになるのか・・・・線引きは誰が決めるのか。謎である
数学ならA≒B≒Cのとき、A≒Cは成り立つと思うのだが・・・・・・

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2008年8月18日 (月)

本物

本物と普通とでも言おうか。

「闘うデザイナー」だとか「闘う料理人」だとか「闘う○○」という風に言う人が居るが、私はこれに違和感を覚える。闘っていない人なんて居るんですか?

公務員は全員闘っていない。主婦もなにとも闘っていない、ホームレスも闘っていない。そういう事なのか。

いや僕の言う「闘う」は違うんですよ!と言われても闘い方だって、闘う対象だって人によって違う。だから「闘う」と言う言葉が人と違うなんていうのは、当たり前である。それを限定するなら「施主と闘う建築家」とか限定するべきだ。

生きている人間は全員闘っている。自分と、老いと、社会と、、、、、だから「闘う」なんて言葉を付ける必要は無い。闘うということは本当はもっと静かで、辛く、苦しい葛藤のようなものだ。それを言葉にする=客観化して、さらに他社に共有してもらおうと名乗るなんてありえない。「闘っている自分の理想像」に酔っているだけか、闘っていない自分を恥じて、それを隠蔽するのに必死なのかと勘ぐってしまう。

昨日、ある女性の画家さんとお話をした。よく金沢城でスケッチをしているというので、私は安易にも「それじゃ金沢城の植物展とかそお言うテーマで個展をしたらいいんじゃないですか」と言ってしまった。

それに対する彼女の答えは「NO」。

そうすれば「地元の事を愛しているいい人」だとか「郷土ネタとしてメディアも扱いやすい」だとかメリットは山ほどある。しかし彼女は自分の絵を見てほしいと言う。絵で勝負するのだという。

私は感動してしまった。

最近は「地産地消」だとか「郷土野菜(石川では加賀野菜)」、他にも仲間になるのは「ロハス」「エコ」「食育」など。そういった言葉を武器にして闘うやからが多い。

まるで流行に乗っかり、実力よりもそういった二次的なものが主役なような振る舞い。

画家は絵で勝負する。料理人は味で勝負する。

そういった本来の姿が失われているように思う。もちろんそんなつもりは無くて「絵」プラス○○、「味」プラス○○でしていたのが段々ウエイトの置き場所が歪んでしまい、本末転倒する。だから彼らは自信を持って、疑いも無く自分を本物であると考えている。

だから全員が本物かと言えば、そうではないのは自明であろう。

画家の実力は郷土愛の深さと別に観なくてはいけない。

画家は郷土を描くから取材されるのではなく、絵の良さを取材されるべきである。

「地元野菜を使った○○」とか「本物の○○」とか「闘う○○」とかは、本質的な実力や作ったものの素晴らしさを消し飛ばすくらいに人間としての卑しさが滲み出ている。

ビジネスだから仕方が無い?

仕方ないという言葉は妥協したということであろう。それをもって「闘う○○」と言う無かれ。

ビジネスをするのは良い。儲ける商いも良い。しかし「何が悪い」と堂々と言うほど偉いものでもない。

尊敬できる大人が少ないものだ。

本物/ホンモノとは

偽物/偽者とは

普通/それ以外とは

あなたはどうやって生きていくのか。

私はホンモノだろうか。

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2008年5月27日 (火)

STOP自殺

私と同じ金沢出身の川田亜子さんが亡くなられた。ニュースでご存知の通り自殺である。

同郷の美人であり、密かに応援していたのだが残念でならない。

人はなぜ自殺するのだろうか。当然その理由は千差万別で十把一絡に「良くない」とか「やめよう」と言ったところで無駄であろう。

キエルケゴールは死に至る病を絶望と言った。川田さんも自殺前に自身のブログで「母に生きている意味を聞いてしまった」と書いている。もちろんそれが理由かどうかなど死者に聞くことはできないので、真実は闇なのだが、「絶望」「生きる意味」というのはキーになると考えられる。

どうせ慌てずとも、どれほど拒否しようとも死は訪れる。ではなぜ自ら死を選ぶのか。それは人生の残された時間に何の意味も見出せず、もしくはマイナスだけ(苦しみだけなど)しか見出せず、明るいものが無いと考えるからであろう。

辛いだけの時間であれば、退屈なビデオを早送りするように飛ばしてしまえばいい。それが自殺だと私は考える。

「絶望」=「残りの人生に意味が無い」と考えることは「人生に意味がある」の反作用であり、更に言えば「目標を持て」とか「人生は美しい」とかいうものの持つ反作用では無いか。哲学ちっくになっていく私が、いつの日か自殺するのではないかと心配してくれる友人が居る。しかし、それは無い。

重複になるが自殺する人は、残りの人生に意味を見出せないと言うことだ。

私は既に自分の人生に意味を見出していないし、そおいう意味では、ずっと昔に絶望しているし、一度死んだ事がある(これについての説明は長くなるのでまたいつか)。

とっくに自分の無意味さに気付き、受け容れてしまった。

しかし死には至っていない。それは「無意味の意味」を知っている、いや知っていると言うのは言いすぎで、無意味の意味というものもあるはずだと、妄信しているからである。

現代人は夢をもち、目標を高く設定して、激しく競い合っている。無駄や非効率、空虚な人生を嫌い、中身の無い人間だと言われることに嫌悪感を感じている。

そりゃぁ、死ぬしかない。止められない。むしろ死なないで生きている馬鹿な奴の鈍感さに腹が立ちさえする。

しかし無意味にも意味があるのであれば、真の無意味は消え去り、絶望もなくなり、残りの無駄な人生を楽しむ事だって出来るはずだ。

無意味の意味を知るときに絶望は消え、人間は救われるのではないかと思っている。

くだらなくて、恥ずべきで、無価値だと

決め付けるのはあなただ

しかし、それは社会の価値観に大きく影響を受けている。実はあなたでありながら、あなたではない。自殺しようとする人は、もっと勉強するべきだ。

私ならこう言う

「死に至る病は無知である。」

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