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2009年3月

2009年3月31日 (火)

無が好きな日本人に最適の趣味

まわりを見ると、趣味が花盛りだ。
手芸、山歩き、ガーデニング、パソコン、料理、スポーツ、ペットの飼育や訓練など、ありとあらゆる趣味の情報が愛好者向けに、また初心者向けに紹介される。
趣味が悪いわけではない。だが基本的に趣味は老人のものだ。
好きで好きでたまらない何かに没頭する子どもや若者は、いずれ自然にプロを目指すだろう。

老人はいい意味でも悪い意味でも既得権益を持っている。
獲得してきた知識や技術、それに資産や人的ネットワークなどで、彼らは自然にそれらを守ろうとする。
だから自分の世界を意図的に、また無謀に拡大して不慣れな環境や他者と遭遇することを避ける傾向がある。

わたしは趣味を持っていない。
小説はもちろん、映画制作も、キューバ音楽のプロデュースも、メールマガジンの編集発行も、金銭のやりとりや契約や批判が発生する「仕事」だ。
息抜きとしては、犬と散歩したり、スポーツジムで泳いだり、海外のリゾートのプールサイドで読書したりスパで疲れを取ったりするが、とても趣味とは言えない。

現在まわりに溢れている「趣味」は、必ずその人が属す共同体の内部にあり、洗練されていて、極めて安全なものだ。考え方や生き方をリアルに考え直し、ときには変えてしまうというようなものではない。
だから趣味の世界には、自分を脅かすものがない代わりに、人生を揺るがすような出会いも発見もない。
心を震わせ、精神をエクスパンドするような、失望も歓喜も興奮もない。
真の達成感や充実感は、多大なコストとリスクと危機感を伴った作業の中にあり、常に失意や絶望と隣り合わせに存在している。

つまり、それらはわたしたちの「仕事」の中にしかない。


以上は村上龍さんの上梓された「無趣味のすすめ」のコメントである。
この中で特に気になったところに線を引いた。
村上さんは仕事を金銭のやりとりや契約や批判が発生するものと定義している。
この定義は中々に良い。
特に「批判」が発生するものは仕事なのだ。
ここでひとつ気になった。
なぜ批評ではなく批判という言葉を選んだのであろう。
批判と批評について再確認してみた。

批評;
事物の善悪・優劣・是非などについて考え、評価すること。

批判;
1)物事の可否に検討を加え、評価・判定すること。
2)誤っている点やよくない点を指摘し、あげつらうこと。
3)〔哲〕人間の知識や思想・行為などについて、その意味内容の成立する基礎を把握することにより、その起源・妥当性・限界などを明らかにすること。

解るようで解らない。
私が批判を使用する場合はどうしても2のニュアンスに引きずられてしまう。
批評よりも批判のほうが厳しい感じがする。
それ以上のことは、なんとも言えない。無力・・・
厳しい意見にさらされる危険があるかどうかという風に理解しておけばいいのだろうか。
ただ評価されるだけならば趣味の世界も評価はされるからであろうか。
このあたり、きっちり解るように誰か説明してほしい。

どちらにせよ私の中の仕事の定義が更新された。

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2009年3月29日 (日)

麻生政権診断

今週でしたよ。
解散総選挙のタイミングの事である。
来週では、もう遅いのである。
先日、敵である民主党は転んだ。
そこを狙って解散すると浅ましさが出る。
それが今週、自分の政権からも問題者が出てきた。
酔っ払って辞めた大臣に続いてである。
そして任命責任についても麻生総理自身が言及した。
その自分の任命責任の事を取り上げて解散総選挙してしまえばよかったのだ。

しかし、しなかった
私としては麻生さんは
ただ総理を続けたいのだと判断するしかない。
駄目だなこりゃ。

しかししつこく続けるのもまた
素晴らしいことなので、そっちに期待である。

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2009年3月26日 (木)

バラバラなバランス

忙しい。
全く関連のない仕事。
全く関連のない相手。
それらがまるで打ち合わせしたかのように一斉に動く。
そんなわけはなく、単に新年度に向かって色々と動いているだけだろう。
そして、それは自分の所もおなじだということ。
自分も何かしようと動く。
まわりも何かしようと動く。
それらが一致してしまっている。

やりたい事がある。
頼まれ事がある。

どっちも無くて苦しかった時を思い出せば
こんなに幸せな事はない。
休みが無いのは当たり前
さらに寝る時間が減るのも当然
健康を害そうが構わない

それでも、こんな幸せな事はないと思っている。
今でもそう思っている。
スローな生き方とか、家族中心に生きられる人間ではないのだ。

しかし、必要としてくれる人達は
私の状況と私の気持ちの両方は理解してはくれない。

僕が幸福になるほど
まわりは不幸になる(不幸は言いすぎだが迷惑をかける)
そんな状況が続くと
周りの幸せを奪って自分は幸せになっているのではないかと
そこには直接的な因果関係は無いのだけれど
それでも錯覚してくる。

自分が幸せを捨てれば良いのではないか

全てをぶち壊して
断ち切れる全ての人間関係を断ち切って
何処かへ行きたくなる。
私の時間を奪おうとする全てのものを
ぶん殴りたい衝動が沸き起こる。

白洲二郎とかチェ・ゲバラはその手の人間だと思う。
子供なのだ。
私も大人になりたいけれど子供だから解ってしまう。
白洲やらゲバラをカッコイイと思う奴は子供でありたい
ピーターパンシンドロームの患者である。
そう決め付けて言い切ると気持ち良い。
しかし、そう言っている人物が子供で、同じ罠にかかっている。
ニーチェ様を引用しなくても怪物退治するものが怪物になるというやつだ。

大人って孤独なんだなぁ。
殴りかかってくるもの達を
みんな笑顔で抱きしめてやらなければいけない。
苦しいと言うより、しんどい。

こうやって文章にする事で客観化して
冷静さをとりもどす。
踏ん張るしかない。
さもなくば白洲やらチェと同じ道を歩まなければならなくなる。

私はそれは嫌だ。

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2009年3月24日 (火)

私の所見

大好き爆問学問のSPをしていました。
私の全体通しての、そして普段からの感想。
ニッポンは幼い。未熟なのである。
ようやく大人になってきた。
それが大多数を占める団塊の世代が還暦を迎えてからというのは情けない。
しかし情けないということもないかもしれない。
現代人が成熟するのは
行け行けで頑張る現役時代ではなく定年後なのかもしれないからだ。
そんな時代に若くして大人になれるチャンスを得た私は幸福である。

偉そうだなぁ。

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2009年3月20日 (金)

疲れ

なんだかとっても疲れている。
おかげでブログの更新が滞りがち。
なんとも悩ましい事が多すぎて、ちょっとオーバーワーク状態。
折角の3連休は休むどころか、色々なイベントがあって返って疲れる。
とりあえず週末を乗り切ろうな3連休初日でした。

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2009年3月17日 (火)

環境問題は解決しました

なんとなく推敲が足りず、これからなのだが上手く育てられない没になりかかってる文章である。

環境というのは無限の要素の集合である。
無限の要素を全て計算に入れることはできないので
地球の温暖化は二酸化炭素の増加が主な原因なのかハッキリしていない。
それどころか地球が温暖化しているのか、していないのかも疑問が残っている。
エコか否かを議論している土台も不安定であり、ハッキリとエコだと言えるものもの少ない。
それなのにエコだと言うものが沢山ある。
環境の複雑さを少しでも理解していれば良いなんて言えないはずである。
環境に良いと言ったとたんに嘘になる。それは健康に似ている。
健康に良いというのは難しい。健康に悪いことを出来るだけ減らす。
それは即健康に良いことである。ストレスは健康に悪いから無くそう。
しかし、それは実現不可能な事である。
実現不可能な事をあたかも出来るかのように言うのは嘘と言ってはいけないのだろうか。
本人は出来ると信じていても嘘である。
では健康を参考に環境に負担をかけない方法を考えてみてはどうだろう。
例えば負荷を全くかけないのも良くない。
負担にも慣れていく。しかしオーバーワークも良くない。
そのバランスを取るのが大切なのだ。だから環境に悪い事もしてもいいのである。
しかしそのバランスが崩れていないかどうかは絶えずケアしてあげなくてはいけない。
環境に良いという事も過ぎれば良くないのだ。だからどのような状況でも環境に良いというものはない。
常に関心を持って付き合っていく。これが環境に良い事だと運動する事も大切だが、
それ以上に、本当に現在の環境にそれが必要なケアなのか。
必要だとしてもケアするのは今なのか、もう少し後なのか。
考え続けることこそが大切なのだ。そういう意味では最も正しい環境問題の対策は現状である。
エコに関心を持ち、何か出来ないか考える。
それで良いのである。
マイバッグだとか、クリーンエネルギーに一気に社会が傾く方が危険なのだ。
環境に善い事したいけれど、何をしたら良いのか解らない人は
「環境に配慮した生活を送っています」と断言できる人よりも正しい。
これから環境に良いというキーワードで社会が雪崩を起こすだろう。
しかしそれよりも現状の方が良い状況だと思う。
現状が最も環境問題が小さいと気付いて欲しい。

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2009年3月14日 (土)

YES WE CAN

YES WE CAN
今更ながらオバマさんである。
NHKで「オバマのことば」という特集を観た。
その中で色々と感じたメモ

アメリカは言葉(概念)で持っている言葉
選挙と言うのは
アメリカがアメリカであるための4年に1度の祭

演説は演説者だけで行うものではない。
聴衆がいて初めて演説なのである。
日本では、それだけ積極的に聞こうとする聴衆が育っているのだろうか。

変えるということを宣言しているが
ちゃぶ台をひっくり返すようなやり方ではなく
徐々に変えていくような変え方

アメリカの単純明快さ
悪か善か
黒か白か
敵か見方か
そういった事は、バカっぽく見える。
それであなどってはいけない
私はやはり
アメリカはすごい国だと思う。

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2009年3月13日 (金)

私はネットを信じない

基本的にgmailを使っている。
そのためgoogleがトップページに設定されている。
最近googleでは「急上昇ワード」というのが表示されるようになった。
これが実におもしろい。

3月3日には麻生首相の発言と日付の話題が並んでしまい
さもしい ひな祭り となっていたし
その後も
平野綾 とてつもない日本
など、なんで急上昇しているのだろうと、ついクリックしてしまう。

面白いといっても
興味深いという意味の面白さではなく
面白可笑しくの面白さである。
ネットの急上昇ワードが、その程度の内容であるのには理由がある

それは食だとか、芸能系だとか、アダルト系だとか
そういった、ほとんどの人が全く興味がないということは無いだろうもの
それでなければ多くの人を動かせない。

ネットでは凄まじい人数が見る。
それを操作するには、面白可笑しくしかありえないのだ。
もしくは最初からアクセスが少ないサイトでのアクセスならばありうるかもしれない。
しかし統計学でもわかるように
少なすぎるサンプルでは正しい傾向は出てこない。

最近アート系のサイトが増えてきている。
どれを見ても、駄目だこりゃ感がある。
例えば最初から取り上げるアーティストが偏り
記事数に差が有るのにも関わらず
「人気のアーティストランキング」なんて無意味でしょう。
このあたりをしっかり対策していただけると良いのではないかと思います。

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2009年3月 7日 (土)

日本人のアブナサ

いい人は迷惑だと以前にも書いた。
それについての考察

人は物事を考えるときに「言葉」を使っている。
言葉を使わないで考える事はないだろう。
実はこれがコミュニケーションツール以外での言葉の大きな存在の一つである。
すなわち我々であれば日本語で考えている。
この日本語こそが危険性を持っているのではないか。

日本語では普段は主語が省略される。
それは「無」が大好きだから「無我」という事なのか
単一民族だからなのか
村(コミュニティ)が常に小さかったからか
どれもそれなりに関係しているのだろうけど。
何せ主語がない。
英語であれば、主語のない文章はほとんどありえないだろう。

何が言いたいかというと
主語がない言葉は誰の発言なのかということ
もちろん語っている人の言葉である。
しかし、それがすぐに話者を超えて
「みんな」や
「世間」、「社会の総意」であるかのような語り口に変わっていく。
そしてすぐに、よく理解もせずに
「倫理」や「常識」という言葉で片付けて誰が判断したのか不明にする。

倫理的に許されない。
社会的常識だ。
これからの人類の義務である。

そんな言葉を耳にするたびに恐ろしくなる。
これらには主語がない。
これからの人類とか、地球市民も主語だというかもしれないので
言い換えよう。僕が言う主語とは文法上の話ではなく
責任者という事だ。
発言に対しては、その発言に対して責任者が必要である。
それは、メディアリテラシーの話とも重なるのだが

誰がどんな立場から 何のために どういった状況で 発言したのか。

これが解らなければ発言は亡霊になる。
責任者というのは個人でなくてはならない。
それが個人が常に隠れている。
そして亡霊のような発言だけがウロウロする。

個人の時代だといわれている
個人の自由が与えられた。
しかしそれには責任がセットであり
個人に責任が問われる時代になってしまった
それによって、かえって個人は責任を問われないように生きるようになった。
そのために世論だか社会常識だかを作って
そのとおりに生きていれば
例え問題が起こっても、責任を取らずに済むと考えるのではないか。

個の時代
益々と個は消えて、みんな似たような発言をするようになった。
それが国民総善人化であろう。
たまに入り込めなかったバグのような人は
さらに国民の団結を固めるために
人身御供として、仮想敵として
悪人とされて、その周りの人も含めて徹底的に
いじめられる
そして、それはハードさを増し、魔女裁判のように摘発即死刑
そんな方向へ進みだした。
お役人はその圧力を敏感に感じて
それらを止めるために
もしくは、それらをさらに加速するために
裁判員制度を導入したのではと思ってしまう。

どちらにせよ私には居場所がなくなってしまう。
なんとか「いいひと」の目を覚ましてやらなければと思うしかない。

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2009年3月 6日 (金)

さようなら山蓄

石川県民ならお馴染みの音楽屋さん
山蓄が操業停止に追い込まれてしまった。
昨年大きめな店構えだったタワーレコードも予約受付窓口と呼びたくなるほど縮小済み。
これで石川県内で新発売ではないCDを探すのは極めて難しくなった。
それだけではない。
音楽ファンを探しにくくなったのだ。
これまで音楽イベントの告知をするには、こういった音楽屋さんでチラシを配布したり、ポスターを貼っていた。
そういった場所が無くなる事で、実は目に見えていなかった情報ライフライン=コミュニティが完全に死んでしまったのだ。
浪曲や謡をする方から、ジャス、ロックの人までが「袖触れ合う」程度で良いから
すれ違う場所が無いと、出会いは生まれにくくなる。
長期的な視野で見ると、確実に石川の音楽文化は衰退する。

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2009年3月 5日 (木)

返すからさ

政治と金の問題がココで騒がれ始めた。
ちょっと面白くなってきた。
不謹慎だと言われても、ちょっとワクワクしてしまう。
それにしても
献金を受け取ったのは倫理に反すると
慌てて返している政治家がいろいろ
受け取ったときは問題だと感じなかったのに
誰かが火の粉を浴びたら
返した方が良いと言うとは
笑うしかない

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2009年3月 3日 (火)

なかなか良かった

ガレリアポンテで開かれている
小泉拓郎 展 Sculpture Exhibition
「地ニ還ル」 "it returns to the ground"
を見た。中々に面白い作品である。
繊細で壊れそうな彫刻というのはあんまりない。
それから今日(日付的には既に昨日)は
金沢美大の卒業式だった。
これから独立行政法人となっていく大学自身も
卒業生も
中々に大変だろうが頑張ってください。

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2009年3月 2日 (月)

怒りはエネルギー

怒るというのは大変エネルギーの要ることである。
なんとなくそう思われているし
自分でもそう思っていた。
イメージとしてはエネルギーが溢れ
爆発してしまったという感じ。

しかし怒るのは実はエネルギーが溢れるのとは
真逆の事ではないかと考えるようになった。
エネルギーの枯渇が怒りになって現れる。
もちろん全てがそうと言う訳ではなく
怒りの一面ではあるのだけれど

一つには我慢するために押さえ込む力の減少。
もう一つは怒りで奮い立たせなければ
「よっこらせ」と勢いをつけなければ
事をなすことが出来なくなるのではないか。

20のころは1年に一度位しか怒っていなかった気がする。
それが最近、色々と頭にきて、それが書く原動力となっている事が多い。
普段はかけずに止まっていた手が
まるでピアニストのようにリズミカルにキーボードを叩き
あっという間に文字オーバー。
しかし
そういった文章はそのまま使えない(どうやっても駄目なときも)。
それでも、そういったエネルギーが無いと
燃えないようだ。

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