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2009年1月

2009年1月31日 (土)

さようならアート

支持率80%を超える大人気の大阪の
橋本知事が交響楽団への補助金を打ち切るよう

橋下知事がセンチュリー交響楽団に最後通告

まぁ、彼はこれまでにも文化・歴史系に厳しかったですからね。
最初に誤解を避けるために言っておくと
私はアート支援したい派なので(アートコレクターでもあるので)
この決定自体は感心しません。

しかし橋本知事の姿勢は評価しています。
アート(美術も伝統も音楽もひとくくりにしてココでは話します)は
役に立たないものだから切る。
アートは余剰であり、過剰である。
だから豊かな人のモノであり、そんな事にお金はこれ以上使えない。
正しいじゃないか。
アートに携わる人の補助金など公共からお金を貰おうという姿勢の醜さから言えば
まさに美しく、爽快である。

もちろん結果的に大阪が文化的に遅れようが
ダサク、カッコ悪くなろうが
イメージダウンしようが
それで観光客が減ろうが
府民のプライドが傷つけられようが
「プライドで飯が食えるか」である。

政治は多数決である。
世論という、誰の責任もない亡霊の発言が力を持つ。
しかし、そこには世相が反映され、
現代人の多数派の意見が映り込む。
私はアートコレクターでもあるので
節約してでも作品を購入することがある。
しかし社会一般では役に立ちもしないアートを
他の役に立つ
もしくは美味しいなど、わかりやすい価値の
何かを節約してまで
アートにお金をかけるだろうか?
世の中が、どんどんと近視眼的になり
数字で置き換えられないものは認識できなくなり
ひたすら解りやすい方向へ流れている現在。

橋本府知事のようなやり方がこれから増えると
予言しておこう。

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2009年1月30日 (金)

さようならピンマグ

pingmagというサイトをご存知だろうか。
東京を中心に、かなり幅広く
アートやデザインについて面白い情報を発信していた。
それが2008年いっぱいで休刊になっていた。
昨年はアートビートの関西版も休止になったりと
不景気の波をモロに受けたような雰囲気。

しかし、私は思う。
不景気はそれほど大きな要因じゃない。
ある決定とは
99%の内部要因と
1%の外部要因による。
とまで言うと言い過ぎかもしれないが
すでに「やめたい」という思いがあったところで
やめるに相応しい事由が出てきただけだと思う。

あれだけのクオリティで
しかも元々広告もそんなに無かったし
というかネットでの広告ビジネスは
とても成功事例が少ない。
最初から、それほどの経済的成功は期待していなかっただろう。
だから経済的な失敗も理由にはならないはずだ。

お金にならなくても何かを続ける。
その大変さを知っているだけに、責める気持ちは一切無く
本当にお疲れ様ですと思うのではあるが
「やめてしまう」
この1点において、彼らのパッションは冷めてしまうような
そんなものだったのかとガッカリもする。
再開を待ちたいが
休刊して、再開したものってどれくらいあるのだろうか?
私は一つも知らないのだけれど。

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2009年1月29日 (木)

不自然な自然

都市は不自然な所が自然だと思う。
普通に考えたら、この道は真っ直ぐな方が便利。
なんでこんな所で行き止まりになっているのか。
とてもじゃないが合理的じゃない。
普通に考えたら変だ。
違和感を覚える。
それはなぜか?
都市は歴史を堆積させて
例えばそこに真っ直ぐの道を作るのを阻む
何かがあったとか、お屋敷に沿ってあったとか
そういう経緯がある事が自然。
違和感を感じないものは
実は不自然なのかもしれないという
アンビバレンツ

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2009年1月27日 (火)

54年8ヶ月6日5時間32分20秒3

タイトルの時間は何でしょうか?
その答えはこちら

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2009年1月25日 (日)

観るクスリ

NHKのサイエンスゼロを見ていたら、
劇作家の平田オリザさんがこうおっしゃっていた

芸術は人間存在を脅かすものである。

あぁ、それは私の定義に近い。
そう感じた。
自分の、それまでの世界観を壊す。
そんな危険なものであると思う。
毒にならない芸術は
薬にもならない

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2009年1月24日 (土)

最悪の決断

私は決断の場面で、しばしば
考えられる最悪の決断を選択する。

例えば
恋人からデートに誘われ
母親から私の好きなコンサートに一緒に行こうと誘われ
友人からお茶に誘われる。
お稽古事の先生に、お稽古に来ないかと言われる。

これが同じ時間に重なっていた場合どうするか。
どれを選択しても、しんどい。
どれも「私の為」にという側面がある分しんどい。

どれかを選べば、他は切り捨てられる。
恋人を選ばなければ、後日、恋人への穴埋めが必要になり
母親を選ばなければ、私が好きだからと折角手に入れたチケットは無駄(他の人と行く)になってしまい、機嫌を損なうだけでなく、私も鑑賞するチャンスを失う。
友人は、もしかすると中々会えない貴重なタイミングだったかもしれないし、相談があったのかもしれない。
もしくは他の誰か(仕事上紹介しておくと良さそうだなど)を紹介したいと考えてくれていたのかもしれない。
お稽古事の先生は、真面目に頑張らないと。だとかお茶や書道、武道の類ならば忙しいときほど、心を静めるために必要だと諭されるかもしれない。

あなたならどうするか。
どれを選択するか。
もしくは、必死に調整して、なんとか後日でもいいからこなすか。

私はこういう場合、考えるだけで疲れてしまって
全部無視して寝ている。という選択をする。
最も無駄で、考えうる最悪の選択だと思うのだけれど
なぜかこうしてしまう。

我々は自由だと言われる。
そして自分でこれらを選ばなくてはいけない。
選ぶということが
私が意図しなくても、他から見ると
選ばれなかった事は、優先度もしくは重要度が低いですという
メッセージだと受け取られてしまう。
メッセージを発信しないこともメッセージとして受信されるのだ。
しかも、ほとんどの場合ネガティブに受け止められる。

そうやって在りもしないメッセージを受け止め
それに対する返信が届いたりする。
複雑な人間関係で生きて選択を迫られる。
疲れきってしまう。

しかしサルによる研究では、こういったコミュニティが大きくなるほど
(ただし多くなるほど逓減し20匹ほどで以降は変わらないとか)
知的レベルは向上するらしい。
すなわち
人間関係のめんどくささこそ、もっとも難しく
さらに精神的ストレスが大きいということが証明されている。

皆の善意でぼくを寄ってたかって苦しめる。
(悪意だったら蹴飛ばせばいいが善意への抵抗は難しい)
その苦しめるということさえも、僕をタフにするためには
また善哉。
おやすみ

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2009年1月21日 (水)

説得力

「リアリティより説得力」
これが最近思っている事である。

本日オバマ氏がアメリカ大統領に就任した。
彼の演説に注目が集まり
演説の上手さが評価されている。
演説というのは説得力である。

ここでもやはり「説得力」だ。
説得力はかっては政治家の演説ではなく
僧侶の説法であった。

説得力=神(仏)

だったのだが、それも今は
神は死んだという言葉があるように
神から科学へとシフトしてしまった。
この

説得力=科学

というのは、ただ神が科学に置き換わっただけである。
ニーチェがしたように
もしくは科学の不完全性があるように
最終的には人間がすることであるため

説得力≠真実

であることは変わらない。
(リアリティが本物ではないのも同じ)
結局、我々は真実(本物)を手に入れようと必死なのだ。

しかもそれが手に入ってないのに
暫定的に、それ(神⇒科学、演説)によって
人々に真実(本物、正義、安全、環境に良い、善、etc)だと信じ込ませている。

信じ込ませる。
それが説得力。

「信じるものは救われる」
どう受け取る?

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2009年1月17日 (土)

ブルータス大学入学

ブルータスという雑誌で学問?の特集
「ブルータス大学開講」というのにとても興味が沸いて読んでみた。
内容は・・・・・
ほとんどがつまらない。
まぁブルータス編集部の実力が足りないから、と言ってしまえば
それで終わるのだろうけれども
(お金を払って買っているのだから酷評する権利も私にはある)
なぜ「つまらない」と感じたのかを少し考えてみたい。

ひとつには
本当の学問ではなく、大学が奇をてらった
テレビなどのメディアで有名な人を
学校の経営戦略上、先生として招いていた
そういう人にだけスポットを当てている。
すなわち
元々学問人ではなく、どちらかというとタレントっぽい人だからだろう
そこで最初の期待と食い違った。

ふたつめ
一つ一つが短い。
もう少し掘り下げれば面白くなりそうでも
文庫本などとちがい、紙面が少ないので
触りで終り。
雑誌で興味を持ってもらって
あとは自分で調べてください
それが雑誌の役割と言えば、そうなのかもしれない。

しかし
個人的に資料として、いつまでも置いておく雑誌が多い
いみじくも、いとうせいこうさんのページで書いてある
16時間分の情報を30秒にまで圧縮する。
それが感じられない。

元の素材の密度が低すぎたのか
編集で受け取り損ねたのか
そもそも選択した人が悪かったのか
高校生か、大学生が読むレベルでした。

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2009年1月16日 (金)

哀れなアート

アートは元々宗教から生まれた。
信仰心や、原始の祈りが絵を描かせた。
そして教会、寺社仏閣といった宗教建築とともにアートは歩んできた。
アートは常に建築と一心同体であり
仕える主は神仏だった。
それが建築からの独立を獲得し
いまでは建築をアートが支配できるまで力が逆転した。
そして哲学と経済、科学が
三位一体となって神を攻撃して
神は死んでしまった。
アートは仕える主に先立たれた。
支えてくれていた建築も
いつしか自分が支えなくてはいけない立場になった。
アートはアートだけで自立しなくてはいけなくなった。
アートの専門家はガッチリと理論武装して
なんとか生命維持をしている。
しかし、アートは関係性の中でしか存在しない
すなわち
アートではないモノ
普通なモノと対比しなければ
アートとはならない。
アートはこれから人に仕えるべきだと確信している。
それなのに
アートは益々
経済・お金という主に仕え始めている。
アートの先輩は学問である。
学問は、もっとずっと前に産業に仕えている。

いつも感じることがある。
アートは学問の後追い。
しかも
アートは経済に仕える。
私はアートを哀れむ。

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2009年1月15日 (木)

えしかる

エシカル(edhical)とは、
英語で「論理上の」「道徳上の」などを意味する言葉。

サブプライムもそうだが
本当に色々と新しい概念・言葉を考えるものである。
エコを流行らせ
次にアンチエコも流行らせ
今度はエシカル。
エシカルに過ごそう!
だとか
エシカルな暮らし。
なんて圧倒的に正しい言葉を投げかけて
そうしようと、具体的に動こうとしたら
あとは屁理屈なエコでも
嘘の善い事でも
なんでもいいからビジネスにする。
エシカルの所で、これは正しいと
理性のフィルターを一回通過させることで
アクションの部分でのフィルタリング機能を低下させる。

こういった
一旦信頼を勝ち取ると
あとは嘘でも信じてもらえるという方法は
ウイルスやマーケティングでは見かける戦略である。
本当に善いことをしようとしたら
ものすごい勉強が必要である。
「ちょっといいこと」なんてありえるだろうか。
そんな勉強をしてまで
エシカルなふるまいをする人は増えるだろうか。

環境問題なんて自分の身の丈に合わないことに取り組む必要は無い。
もっと現実的に応援したい企業、商店、生産者の
商品、作品、サービスを購入するようにしたらどうだろうか?
大手量販店で、安売りを買うのではなく
近所の小さな店で、割高のものを買う
20~40軒がそうしたら、そのお店は経営が成り立つかもしれない。
これならば十分に身の丈に合ったエシカルだ。

さて、その「割高」を買う。
エシカルコンシューマーとエゴイストの分水嶺だが、
生活防衛やコスト(節約)意識とは真っ向対立する。
この矛盾と向き合わなくてはいけないので、
やはり勉強が必要である。

2009年に流行させるつもりかもしれないけれども
流行は必ず廃れるという宿命をもち
勉強は一朝一夕では身につかない事を
考えるに、流行らせてはいけないと思うのだが。

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我々は悪を待望している

「希望は戦争」と言った人が居る。
別にそれとは関係ない。
最近は「関係性」というのがマイブームである。
上司というのは、上司だけでは存在できない。
上司は部下が居てはじめて成立する。
親は子が居なければ、親になれない。
自然も非自然があってはじめて自然となる。
だから自然を大事にとか
漠然と森やアマゾンが自然だとイメージするが
そのイメージは間違えている。
AとBを比較して、どちらがより自然っぽいか
というのが自然の正体である。
違うというならば
「自然」というモノを取り出して見せて欲しい。
同じように正義と悪がある。
正義の人というのはイメージできるだろうか?
逆に
悪人をイメージすると簡単では無いだろうか?
人を殺すとか、物を盗むとか、レイプするだとか
悪いことなんていくらでも思いつくし
それをしている人をイメージすれば
悪人なんてすぐイメージできる。
しかし
何かをすれば正義の人という事は無い。
一番イメージしやすいのは
悪と戦う人である。
戦隊ヒーローや、スーパーマン
現実では警察官や検察官あたりか
彼らは悪と戦うから正義であり
悪が居なければ、役割を失う。
悪は自立した存在であるが
正義は実は悪に依存した存在なのだ
だから正義になりたい人は
必ず悪を生む
それは犠牲者がいるということ
正義こそが最も悪い奴だという事に気付かなければいけない。
正義の為には悪が必要で
我々がヒーロー(正義)を待望するならば
それは悪を待望しているに他ならない

搾取する資本家
イラクで戦争を始めたブッシュ
地球を破壊するCO2

こういったものがあって初めて
対抗する正義がある/生まれるように思う
正義には個性もオリジナリティも無い。
だから悪に魅かれるのかもしれない。

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2009年1月14日 (水)

LOHAS(ロハス)とは何かを考える

我々は地球に生きている。
基本的に地球は太陽光というエネルギーが入ってきて、熱エネルギーが出て行くだけの機関である。
物質的には出入りがほとんど無く、地球上で循環しているだけである。
だから私達の身体を構成している素材も、物質循環の一部である。
だから人間は環境の一部である。
例えば水に着目すると、水は地球から出たり入ったりしないで地球上で循環している。
循環のある一瞬に我々の体内にあるのだ。
そういった繋がりを考えれば環境と健康は直結したシステムである。
ヘルス(健康)とサスティナブル(環境)の組み合わせは、とても自然な組み合わせだ。
一般的に何かを選ぶときに環境負荷がより低いものを選択するとエコだと言っている。
ペットボトルを選ぶ人は、その軽さ・薄さ・丈夫さによって破損のロスや輸送時の環境負荷の低さを主張してエコだという。
ガラス瓶を選ぶ人は何度も使えることや、ペットと違い完全な再生が可能であるという点を主張してエコだという。
アルミ缶を選ぶ人は軽さ、薄さ、丈夫さに加えてリサイクルの容易さを主張してエコだという。
どれを選んでもエコになるのだ。
生産、流通、廃棄の3つで起こる問題は全く次元の違う話なのに
環境問題という同じ土俵に乗せてしまうから、まともな判断ができなくなっているのではないか。
結局は利益に関係している人間からの偏ったデータを参考に自分で決めるしかない。
膨大な論やデータを普通の人が集めて比較するなんて技術的にも、時間的にも困難である。
だからなんとなく良さそうだったり、みんながしているとか、昔からしているように自分も行動する。
なんとなく良さそうだという脱理性的判断で物事を決めようという姿勢(思想?)をロハスの思想と呼ぶと、ロハスは考えるではなく感じる事ではないか。
思い起こしてみるとロハスピープルは感性を大事にして、身体や自然の声に耳を澄ませていそうなイメージがある(私だけか?)
考えるより感じるという考え(「感じ」とした方が良いのか)は、考え抜いた末に感じるのと、考えないで感じる事がごちゃ混ぜにされるあたりサブプライムや食品などの色々な偽装の様だ。
ロハスと偽装というのが根本的に相性のいい理由はこのあたりか。

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2009年1月13日 (火)

解答はシンプルに

1/3しか無ければ3倍に

目の前の資源に併せて対応する。
なんてシンプルな解答だろうか。
という訳で、コメントもシンプルに

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2009年1月11日 (日)

悩む力

姜尚中「悩む力」を読み終える。
んー、正直に言うと
「そうそう」という共感も多いけど
それ以上に
「そうしてます」
という感じ。
自分は記憶力があまりよく無いと思っている。
だから過去というのが簡単に揺らいでしまう。
一生懸命だったつもり
必死だったつもり
ではあるが
「つもり」
になってしまう。
だから常にフルパワーでする。
そうすると過去にも自信が持てる。
今の自信は過去によって支えられている。
常にフルパワーで生きることが
過去の自信を担保し
過去の自信が
今の自信を担保してくれる。
結構幸せです。

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2009年1月 8日 (木)

書を捨てよ。街へ出よう。

ある先生にお聞きしたことがある。
「間違えないためにはどうしたらいいのか」
そのこたえは
「一人にならない。人と話をする。」
と言う事であった。
私自身も議論や対話の中に真実?力?があると思っている。
人はよく
議論しても決着しない
中途半端な折衷案になる
その結果が芳しくない
解りあえない
等など、議論や対話は無力(無意味)だと言う
それは結果だけを見ているからである。

重要なのは結果ではない。
むしろ変化の方だ。
例えば
「負けるが勝ち」の、ひとつの解釈に
議論で負けた人は
自分の知的なレベルアップに繋がった
議論で買った人は
優越感しか残らない
だから議論に負けた人の方が
得るものが多く、勝ちだ。
というものがある。

議論の途中で気付く事は多い。
それを得ることで自分自身が変化する。
まぁ成長と言ってもいいし
修正されると言ってもいい
議論自体の結果や結論は
あまり重要ではない。
議論にしか注目できない人は
枠に捕らえられた
視野の狭い人である。

そして自分という枠にはまっていることに気付いていない。
自分を超えるには、他者が必要なのだ。
他者との理解(もちろん完全な理解は無いとはいえ)には対話や議論しかない。
本を読んでも、その解釈は自分の中でしか起こらない。
一人で本を読んでいても無理なのだ。
引きこもりは、どれほど深く悩んでも
解決や脱出へとは至らない。
もしくは脱出するには対話しかないと
結局、「引きこもるのをやめる」
という結論を得ている。
書を捨てよ。街へ出よう。

しかし「書を捨てよ。街へ出よう。」
という言葉が、そういった意味で言われたかどうかは
議論の余地がありそうである。

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2009年1月 7日 (水)

善+善+普通・・・・=悪 になる事もある一例

「後ろめたい事が無いなら、何をしていたか言えるでしょ」
こういった質問は、それだけを見ると質問者が
正しい人で
質問されている人が、何かを隠す
悪い人だ
と見える。
しかし別に後ろめたいこともなく
むしろ善い事をしていたとしても
言いたくない事や
言いたくない時はある。
更に言うと、言っても良いのだけれど
今言うと、常に言わなくてはならない関係が生まれ
「言いたくない」という発言が通用しなくなる。
未来の「言いたくない」を守るために
今、「言いたくない」といわなくてはならないような気持ちになる。
気持ちの問題は、納得できなくても
そっとしておいて欲しい
それを、なんとか理屈にするとこんな感じだろうか。
知られては困るとか、知られたくない事が一切無くても
それら全てを知られる=把握されると
監視されている気分でいっぱいになる。

いつ起床するか
いつ出かけるか
いつ食事をとるか
誰と食事をとるか
誰と話をするか
いつ寝るか

どれ一つ考えても、別に知られても困らない。
まぁ、寝坊をして恥ずかしいとか
そういった面で知られたくないことはある。
失敗しない人は無い。
それら全てが監視される
もっと言うと管理される場所がある。
それは何処か?

軍隊と牢獄(刑務所)である。

疑惑の空白ではない
余白である。

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2009年1月 5日 (月)

年末年始はテレビっ子

普段あまりテレビを見ないのだけれども、年末年始はテレビ漬けになる。
そんな訳で、色々と見ながらメモった、既に出展不明&思いついたことを

「嘘の色は何色か」
玉虫色の答えなんて言うのがあったけれど、
最近はエコを意識して、色々なものが緑色で表示されている。
私たちの求めている緑は、印刷や、ペンキや、ディスプレイの
こんな色だっただろうか。
緑から緑を引いても緑である。
本物の緑をあなどるな。

「リアリティより説得力」
by本谷由紀子

「マネーへの投資」
by姜 尚中

「自分で考えて表現する」
byフィンランドの教育現場

それにしても経済番組などでの討論を見ていて
民主党、社民党、共産党など野党は醜い。
きっと与党の批判しか言わないからだろう。
「罪を憎んで人を憎まず」
という言葉を知らないのだろう。
彼らは与党の批判をやめて、
もっと冷静に政策自体を標的とし
変えるべき点と評価できる点を
きちんと区別し、指摘した上で
政策の問題点を敵とするべきである。
敵を間違えている。
だから野党は尊敬できない。
逆に言えば
そこを変えていけば尊敬できると言う事である。
「尊敬できない」という言葉は
批判でも批評でもなく
エールである。
が、大概の人はそう受け取ってくれない。

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2009年1月 4日 (日)

テレビっ子の2

テレビ見ながらのメモ

レンゾ・ピアノ曰く
伊勢神宮の20年建て替えシステムは素晴らしい。
宮大工は、それによって
20~40代は見よう見まねの時期
40~60代は実践の時期
60~80代は教える時期
建築は人類で最も古い職のひとつ。
熱や雨から人を守る、自然との関係なのだ。

社会企業家という言葉を作った
ビル・ドレイトン(アショカ)曰く
ビジネス(その人の仕事)と結婚できるか。
「健やかなときも、病める時も」です。
結婚できなければ
何事もなしえない。

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2009年1月 3日 (土)

立川談志

あけましておめでとうございます。
正月は寝正月でテレビと決め込んでいます。
NHKで「新春蔵出し!まるごと立川談志」というのをやっていた。
なんとなく噂などでは聞いていたのだけれども、本当にスゴイ方だ。
しかも言っている事もよくわかる。
もはや宗教と区別できないなぁと思ってみていたら、自分でも仰っていた。

やりたくないことはやるな
とか
努力は馬鹿の希望
と笑うのは素晴らしいと思った。
そして生きる人への強力なメッセージ

馬鹿にはどうせ解らない
と言い切る姿もすごい。
語源の由来が反転していく落語
そして
「生と死」も主観の問題にしてしまう。
もしくは
しているんじゃないのかと笑いにしてしまう。
あれは信仰する人が多い訳だ。

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