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2008年11月

2008年11月30日 (日)

重文「宝誌和尚立像」

宝誌和尚立像を拝見しました。
なんなんだろう、この発想。まぁ故事が由来であると言うことなので、故事がすごいのかもしれないけれども。
京都国立博物館 平常展示館ですよ。
国宝&重文がこれでもかーっと一気に見れます。
しかもタダ=無料=¥0です。
というのも展示は12/7までで、来年から約5年かけて谷口吉生建築に建替えだということです。
楽しみである。
しかし5年後の話です。とりあえず今すぐ見に行きましょう。

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2008年11月29日 (土)

明日で11月も終り=今年もあと1ヶ月

環境偽装で意外な影響」がアクセスランキング1位に安定している。
今年のはじめころの記事である。再生紙は疑ったほうが良いと言おうとしていた直前に、紙の偽装どころか、再生紙100%がCO2の点では良い事でもないと、偽装していた本人たちから開き直ったかのように出て、それによって紙の価格が上がるという、盗人猛々しい状況が発生したという話。
さて、あの日の予感のとおり環境偽装は増えたかというと、絶対に増えている。
ただし「発覚⇒価格上昇」の流れを作れない場合は公表しない。だから未だ隠されているのだ。
それに対して「食」に関しては多くの偽装が発覚した。「発覚⇒価格上昇」に繋がるからだ。
しかし、思っていたほどエコを錦の御旗にしたものは出てこなかった。
エコに関する意識なんかより、原油(ガソリン)高騰、生活必需品の値上げ、リーマンショックなど金融恐慌、多くの犯罪から自分たちの生活を守ることで精一杯だったからか。
エコだったら、少し高くても良いなんて馬鹿なこと言ってられなくなったのだろう。
エコ反対をどれほど必死に叫んでも賛同してくれる人は稀だが、経済攻撃にはみんなひとたまりもないとは情けない。
経済のエコ(ノミー)も、それに振り回されるなということを言っているが、それは最初から届く声だとは考えて居ないので問題ない。

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ロスト

ロストとは失ったとか負けたとか浪費されたという意味である。
ロストジェネレーションと呼ばれる世代がある。ウィキペディアによれば就職氷河期に就職活動を行った世代(大卒だとおおむね1970年代から1980年代初頭生まれ)とのこと。
かく言う私もロスジェネである。
一体何がロストなんだろうか。
失われたものは何か
何に何で負けたのか
どう浪費されたのか
さっぱりわからない
よく言われるのは会社(大企業のことを指すのだろう)に、その世代だけが抜けているというようなこと。
別に問題ないだろう。元々20人とかしかいない中小企業であれば、世代の歯抜けは当然である。
彼らにだけ未来がないなんて言うのであれば、馬鹿も程々にせよと言いたい。
彼らに未来がないならば、その親は幸福にいられず
さらに彼らは結婚できず
彼らは子供を作れず・育てられず
と列記し続けようと思ったのだけれども、実際そうなっているではないか。
だから「アラフォー」とか呼んで消費意欲が旺盛で、もっとも価値観の多様性が乏しい世代にマーケットは注目するしかなくなっている(もうひとつ団塊の世代というのもいるのだけれど)。
アラフォーはロスジェネから見ると馬鹿にしか見えないのではないかと思う。
なぜあれほど異口同音の意見しか出ないのか。
あの時代だけ、なにか強烈な教育によって洗脳されているのではないか。
思春期にバブルを経験すると人間みんな一緒になるのか。
面白い研究結果や考察があれば紹介して欲しい。
ロスジェネに話を戻せば、ひとつの考察として
市場がロストした。
ロスジェネの逆襲とでも呼べば良いのではないか。
抗生物質を乱用して、耐性菌が生まれるようにロスジェネはロストされる事に耐性がある。
だから無駄使いしないし、物欲も旅行に行きたいとか消費意欲も低い。
売買をマーケットと呼ぶならば、彼らはマーケットに居ない。
そういう意味で居ない世代と呼ぶのであれば正しいかもしれない。
もちろん彼らは出て行くしかなかった。
しかしそこが最も素晴らしい世界ではないことを頭ではなく、体で理解している。
頭でしか理解していない、それよりも上の世代とは次元が違う。
となると、何が起こるか
ロスジェネだけは経済恐慌/金融恐慌にも耐性がある。
それ以外の世代には耐性がない。
ロスジェネがマーケットから追い出される⇒マーケット縮小
内需の市場とか呼ばれる日本のマーケットはズタズタになるだろう。
バンバン企業倒産はおこるだろう。
失業者があふれるだろう。
お金でしか繋がれなかった友情・家庭・恋愛の崩壊
お金なしで楽しく暮らせない
お金でしかステータスを示せない。自己実現できない。自己顕示できない。
ロスジェネだけは耐性によって何事も無く生きて
それ以外の世代は大いに苦しく、生き辛い社会になるかもしれない。
それは
ロスジェネを
ロスト(浪費)した事が原因で
ロスジェネが意図しない形で発生する
ロスジェネによる
ロスジェネの大逆襲となるかもしれない。
ロスジェネを今救わなければ
ロスジェネではなく
ロスジェネ以外の世代が
ロスト(負け)させられるかもしれない

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2008年11月28日 (金)

芸と藝

芸と藝は違う字だったらしい。
前者はウン、後者がゲイ。
ウンは「くさぎる」とも読み、草を刈ったり、除草したりして植物を育てることを言ったらしい。
ゲイは技術全般そして植えるということをさしていたようだ。
植物を取ることと、植えること。全く逆の意味であったものが明治期にたまたま同じ「芸」という漢字になってしまったらしい。
どちらも植物を育てるということでは共通するので問題無いのか。
芸術と園芸の重なり具合。
さらに「芸亭」と書いてウンテイと読み、図書館。さらには「学問の場」という意味があるそうだ。
これはヘンルーダという植物を芸草と言い、この植物が虫除けのハーブとして広く使われていた。
そのため書物のある場所からは、ヘンルーダの香りがして、ヘンルーダの香りは書庫の香り、書庫・図書館は学ぶ場所ということらしい。
「芸」という1文字が園芸・芸術・学問を表す要になっている。
大変興味深い文字である。

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2008年11月27日 (木)

ハテシナイモノ

果てしなく遠く。
それはどこかと問われても、答えはない。
限りないものなんてあるのだろうか。

諸行無常

太陽エネルギーは永遠だとか言うけれど、数十億年というスパンでは消滅する。
人の欲望は限りがないと言うけれど、食欲も人が一生で食べられる量には限りがあり、性欲もしごとをしなくて良くて、女にどれほど不自由しなくても毎日何十回も出来るわけがない。睡眠欲も1日24時間以上眠れる人は居ない。全て肉体が耐え切れない。
今のところ
永遠に続いた平和も無ければ
永遠に続いた国家も無く
永遠に続いた経済発展もない
永遠に増え続けようとするものはいっぱいある。
それは先ほどの欲望だったり経済・マーケットだったり
生物学的に言えば菌や癌細胞、精子細胞も無限に増えようとするらしい。
しかし増え続けようとすることで自分の環境を破壊してしまう。
永遠や無限というものは実は存在しないのだということがよくわかる。
それでも望むという愚かさなのか、それとも克服しようとする勇気と呼んであげたら良いのか
まぁどっちでも良いのだけれども
それだけは人類の歴史がある限りという条件付で
永遠である。

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2008年11月26日 (水)

ホラーの時代

ホラーの時代
ほら楽しそうでしょ。

っていう駄洒落が書きたくなった(というか書いたけれども)。
なんで訳のわからないことを書いたかというと、大好きな爆問学問の早稲田大学スペシャル「平成の突破力」を見たからである。
昭和の時代はミステリー小説の時代だった。最後には問題が解決できるという状況だった。
平成はミステリー小説の時代で、最後まで行っても解決や答えがないという。
あぁ上手いなぁと思った。
視聴感想文としては、色んな人の意見は、ある面では素晴らしく、他の一面では甘かったり、おかしかったりするなということである。結局、一人一人の世界においての正しさの不確かさが見えたように思う。
ひとつ気になったのは「閉塞感が強まっている」という認識だけは、みんなに共通していたということ。
みんなそんなに閉塞感を感じているの?と驚いた。
自分は、あんまり閉塞感を感じていない。もちろん自分が天才的であり、世界的トップランナーであったり、人類を救うような存在であれば そんな風に思うのかもしれないが、自分自身が子供のように純粋に「理想世界」や「あるべき姿」というものを持っていないので、それが実現されない・実現度合いが低いからという苦しみが発生しようが無い。
もちろん目の前には問題と呼べる、大きめの問題はいくつもある。
あるから何だというのか。
いつの時代でも、どこの国家でも、どんな世代でも、どっちの性別でも悩みや問題を持たない人が居たのだろうか。自我の発生は、そのまま終わりなき問題の発生だと思う。であれば問題があることは問題ではない。
そうなると問題は問題ではなくなる。問題は解決した。しかも問題として依然と存在している。
番組中にも言われていた「不合理を大切にする」という面はとても大事だと思う。

そんなに理由が必要か

どれほど理由不要を訴えても、どこにも届かない。
今月で廃刊になるアート・トップは最後の特集に「アートの理由」を選んだ。
結局「理由」である。
理由がって何かがある。
原因があって結果がある。
問題があって解決がある。
事件があって、刑事が活躍する。
それでは、そもそも前者が無かったら?
原因があって結果があるというのは、とても合理的な考え方だ。
そうではないことを不合理と言うのであれば、この世の中が不合理だというのであれば、原因無き結果の世界とも言える。
まぁ、こんなこと言ってたらビジネスマンとしては三流として馬鹿にされるんだろうな。

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2008年11月24日 (月)

農のいとなみ、耕すこころ

西田幾多郎記念哲学館で行われた上映会「いのち耕す人々」を観て、さらに映画にも出ている星さんのお話を聞かせて頂いた。
時代と逆行してでも信じる道を進もうとした若者たちの姿には心を打たれた。
そして、その時「精神的村八分」を味わったという言葉は、とてもよくわかる。
それは今も、色々なところで、色々な形で起こっている。
「そんな事をしてはいけない!」と大きな声をあげるタイプの人間は特に率先して、こういった事をする。
きっと相手には伝わらないだろう。
しかし私と同じような状況・境遇で戦っている人に勇気を与える話をもらった

農業の近代化を進めて、国際競争にも負けない農業をして、みんなで豊かになろうと一致団結しようとしている時に「有機農業」やら「空散(農薬の空中散布)反対」して、もう一度昔にでも戻る気か?と良くて変人、悪ければ精神的な村八分にされていた。それが何年もかけていくうちに「まだ農薬使っていると悪いことしているみたいだ」というところまで頑張った人たち。

みんなで一致団結して良い方向へ頑張ろうとしている人の「いいこと」という暴力は、悪人の暴力よりたちが悪い。
それと立ち向かう将来の英雄は、今日は変わり者・厄介者・嫌われ者である。
有機農業では雑草や害虫が沢山発生する。それが発生しないというのは偽有機なのだ。
ここまで書けば何が言いたいかわかるだろう。

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2008年11月20日 (木)

杉本博司

杉本博司「苔のむすまで」を読む。
読もうと思って買ってあった「積読(つんどく)」の一冊だったのだけれども、今週末より始まる待望の、杉本博司個展「歴史の歴史」(金沢21世紀美術館)が始まるのに間に合わせるために読み終えた。
昨年の森美術館での個展で、感動した私としては楽しみである。
しかし昨年観ているので、今回は予習をしっかりして見方を変えようと思っている。
ぜひとも初日のアーティストトークを聞きに行きたかったのだけれども、都合が付かず断念。残念。

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2008年11月18日 (火)

流れの見える場所

10月~11月頭まで金沢はアートが熱狂していた。
お金をかけないで、それなりの事が出来て、しかもメディアも無料(これが大事)でアートのイベントは大々的に取り上げるので小さなお店や商店街やグループやNPOなんかが、こぞってアートイベントに流れた。
今年のうちに書いておけば予言になるであろうから、書いておくが、来年は一気に縮むだろう。
益々景気は悪くなり「やろうとする人」「やりたい人」は増えても、それの受け皿も無く、今年見て回って思ったのは見て回る人が既に飽きている。
プロデューサー不在、ディレクター不在の完全に学園祭状態。指揮者不在で客席もガラガラのオーケストラ。やっている人たちだけが盛り上がっている。
それを目の当たりにして、来年同じだけの企画が立ち上がるわけが無い。
もちろん一部の企画は手ごたえを感じているようだったので、拡大するイベントなんかもあり、そういう意味では淘汰されてクオリティが上がると期待したい。まぁ大概は淘汰されずに統廃合されて良いイベントに中途半端なイベントが合併され平均点が下がる・・・というのが多いのだが。
そんな影響もあってか、アクセスランキングは金沢アートプラットホームをトップにして、1ヶ月ほどアート系記事が多数ランクインしていたのが、先週くらいから消えてエコ関係に戻りました。
アートの熱は冷めたようです。
冬が来る直前にアートの冬がやって来ました。
多分工芸が、その間盛り上がるでしょう。
週末見てきた山田真子個展「つかう」は良かった。彼女の作品が持っている柔らかな空気感は良い。終了した2部校正の前半「つける」の方も驚いた。漆のアクセサリーと言うと、いかにも伝統工芸チックで、螺鈿でグロテスクな豪華絢爛さを出しているのだが、彼女の空気感そのまま「やわらかく」なんというか今までの漆のイメージとも違う感じで新しい素材に見えた。
ファッションデザイナーに漆のパーツが起用されたりして、アート業界よりも、ファッション業界で活躍してくれそうな気がする。

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2008年11月17日 (月)

エコとエコの類似

昨日の続きのようになってしまうが、今朝、アマゾンから書籍の宣伝メールが届いているのに気が付く。
「人はなぜ環境問題に騙されるのか」というような本だった。
最近、この手のアンチエコのような情報を良く見かける。1年前とは大違いである。
おそらく書籍化に半年から1年はかかるのだと考えると、当ブログの始まったころと同じころの企画なのだろう。
エコ(環境)とエコ(経済)は結局、人が作ったシステムであり、流行であるから同じように「冷静と情熱」「好景気と不景気」の波がある。
ブームという奴は全部そうだ。
結局、価値観が統一されている証拠である。
私は人間欲求とかマーケティング、構造に関して考えるときに、究極には3つのパートがほとんどであると考えている。それは女性誌などの占いを見れば一目瞭然。ある種の普遍性さえ感じている。
それは健康運、金運、恋愛運の3つだ。これを少しだけ展開すれば
健康=文字通り健康、美容、病気、衣食住といった「自分自身の問題」
金運=仕事、家庭、物欲(車やファッションなど)、社会的ステータスなど「社会における自分の問題」
恋愛=セックス、家庭、孤独、精神の健康、美容、自己顕示欲など「私人である自分の問題」
まぁ多少の重複や、該当しないものもあるであろうが無理やりに突っ込もうと思えばなんでも3つのうちのどれかに入る。その無理やりとは
健康=肉体としてどうしようも無いこと
金運=他人から見た人としての私(より公的)
恋愛=他人から見た男・女としての私(より私的)
である。
この手のものは普遍で干渉しあって盛り上がったり、冷めたりと波があるだけである。波は流れに対して必ず起こってしまうものだと思えば不思議は無い。
だから盛り上がるほど、その反動はあるだろうと予測している。
今のアンチエコの盛り上がりは、エコの盛り上がりへの反動である。株価で言うところの反発であり、ダイエットで言うところのリバウンドである。
メディアはすぐにオーバーに触れて、オーバーな、すなわち過ぎたるは及ばざるが如しという言葉のとおり、嘘をつく。それで人は飽きて去って行き、ファン・より深く考えるというか、そこに例えばエコで言うところのロハス層を作りきれずに終わる。作れればもっと儲かるのにと「馬鹿だなぁと眺めている」。メディアが考えるほど人は飽きっぽくも無い。刺激ばかりを追い求める層は、どうせ何事もなしえることは無い。だから社会的に尊敬されたり、憧れの存在にはならない。だからオピニオンリーダーにもならないで、なびくだけである。そうでない層をきっちり抑えれば後から付いてくる。
そんな苛立ちにも似たものを感じているのは何故かと言うとアンチエコの盛り上がりは、そのまま大きな枠組みでエコブームの一部だからだ。これをしてエコとアンチエコの両方の意見が出ている。より正しい見方だとか、論争を格闘技を見るように楽しめとか、そういう事であれば、結局エコブームの内部でなんらかの盛り上がりを作ろうとしているのだろう。オピニオンリーダーになるような人たちにお伺いしたい。
今更アンチエコ系の本を読みたいですか?
そろそろ落ち着いてエコとアンチエコの間。すなわち「確かな事」「確からしい事」「信憑性の低い事」「でたらめ」を整理して「やらなくてはいけない事」「やるといい事」「やらなくてもいい事」「やらない方がいい事」を考えて欲しい。
これはエコだけではなく、FXブームだとか、現代アートバブルだとか、そういった事に関しても同じである。
熱狂というのは、麻薬みたいなものだから。

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2008年11月16日 (日)

冷静と情熱の間しか無くないか?

内田樹さんのブログを最近になって読み始める。今日のような休日にまとめて読もうとするとすごく疲れるし、読みにくい。ブログって読みやすいですか?只だから良いけれども、お金を出してまでは見たくない。やっぱり本を買うなぁと。
ネットの内容にヒトはそんなに影響をうけますか?
影響をうけなければCMの効果は広告代理店の大本営発表に言いなりで、うける事として処理しますか?
なんだか私の周りで「ポータルサイト」を作ろう、もしくは作ったらどうかという話が増えている。
個人的には2,3年になるどうか?ライブドアがが行け行けゴーゴー!という時代の話に聞こえて仕方がない。
ネットバブルに浮かれたボケが、バブル崩壊して冷静になったけれども、また金融やら新興国によるバブルで、戦後最高の好景気というものでボケているんじゃないのか。
そしてその好景気も躓いたので、もうすぐ冷静になるのだろう。
情熱というのはボケである。馬鹿でもいいんだけれど。愛が情熱的になれば「色ボケ」「バカップル」と呼ぶし、他にも「○○キチガイ」「○○狂い」「○○信者」なんて言い方もする。
ヒトは何故こんなにボケやすいのか。でも平和ボケしていられるのはとても幸福なことであるので、ボケは幸せと平和の証だから嫌う必要はないという面もある。
webの未来について考える。面白いことが出来るのではないか。可能性を信じている。信じる根拠はテレビやラジオの視聴時間は横ばいか低下しているのにインターネットの閲覧時間は延び続けているからだ。
そして端末&アクセス方法の多様化&廉価化によって普及もますます進むだろう。
しかし内容はとてもつまらないままだ。
むしろ紙に劣るメディアになりつつある。
それは先日より書いているように「出会い」を生みにくいと言う事だけではなく、紙で出来ることを、単にコスト削減だったり、届け方が物理的制約をうけないというメリットで使われている程度だからであろう。
ネットでしか出来ないものがWEB2.0ではガッカリだ。
そうは言いつつも、結局なんだか緩やかに全てが融合していくように見える。
幸せという価値軸では貧困も裕福も大して影響力を持てず。
資本主義は破綻して、公的資金の流入で社会主義化が進み、社会主義はとっくに少しずつ資本主義のDNAに侵食されている。
男と女もなんだか似たような性向を示し。
メディアもそれぞれの利便性をつきつめると言うよりは、適度にミックスして効果を狙う。
ストイックという価値観が消滅していって「効果原理主義」に世界は一極集中してきている。
それ以外では他人を納得させることが出来ず、益々単一の物差しを必要としている証拠こそが「これからはコミュニケーションの時代」ということだろう。コミュニケーションは嘘だ。単に通じるかどうかという話をコミュニケーションを呼んでいるに過ぎない。
もう全部ぐだぐだになっているから厳しいという概念も出番が減っていくだろう。
均質化、均一化しているとしか思えない時代。
エントロピー増大の法則ですね。なんて科学法則を当てはめて、わかった気になっても仕方が無い。
システムは生命や生態系、キャッシュフローを考えればわかるように、流れていて初めて生きるのだ。
流れこそがシステムであり、流れこそ活力である。
では流れはどのようにして起きるのか。それはご存知のとおり高低差や密度差によって起きる。これを富や権力の高低差・密度差と読み替えてもらっても良い。
差別をしようとか、二極化を進めようなんてかけらも思わない。
しかしこの平等であり、均質になろうとしている世の中は、自らの内にでも高低差や、何かエネルギー源を持たなければ、どんどん淀んでいく。
実は極端な話、冷戦だとか戦争だとか、貧困と裕福などの強烈な二項対立のようなものがある方が社会システムは安定するという悲しさ。
それを歓迎するわけには行かない理性の苦しみ。
問題点の列記は限りなく多い。
しかし問題の解決が、新しい問題を2つ以上生むのであれば解決せずに放置するというのもまた正解である。
それを抽象的に表せば「所詮は、お釈迦様の手のひらで踊るような」ものであり、我々は真理に近づいた訳でもなく、何かを変えることが出来たわけでもないと斜に構えて言うしかなくなる。
冷静とボケの間を行き来するのは、そうやって何処かにある富をマーケットは吸い込み、また何処かへ吐き出すという命の呼吸なのかもしれない。

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2008年11月14日 (金)

チャンス

「関東大震災はチャンス」と兵庫県知事が言ったそうである。
その考え/思いはわかるが、まともな大人が口に出すだろうか。
政治家の言葉は商売道具であるはずだ、それに対して考慮が無さ過ぎではないだろうか。
言論の自由と言うのがあるけれども、それは「何を言っても良い」という意味なのだろうか?
私が思うに正しい人間は居ない。
全員が間違えている。
しかし全員が完全に間違えている訳でもない。
それぞれの言い分に正しい部分もある。
それらを照らし合わせて、物事をより複眼的に見る。立体的に見る。多角的に見る。そうやって大きく間違えないようにする事が大切だと思う。
問題発言に対して謝罪が行われたそうである。
誤りに気づけたのであれば彼は少し多角的に見ることができるようになったと言える。
しかし「批判が多いから、とりあえず謝って置くけれども俺は間違えていない」と思っているのであれば愚か過ぎる。孔子曰く「過ちを改めざるが過ち」である。
どうせ全員間違えているのだ。間違えの程度の差でしかない(今回の程度はあまりにも酷いが)。
間違えた発言をする自由が無ければ、正される権利を失う。
「常に俺が正義/真理だ」と言う人は、批判されはしても利益は無いので、この言葉を贈る「沈黙は金」

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2008年11月12日 (水)

ネットの信頼性

インターネットの情報を信頼している人が多すぎる。
ネットの内容は基本的には無責任であるのだ。責任というのは個人に帰属する。
企業の責任は経営者に帰属する。経営者は必ず個人である。
ネットは匿名性の世界だ。だから個人と言うものは基本的に「石沢三郎のブログ」とか「石沢商事HP」というものでなければ責任の所在は失われる。
だからこそ後ろめたいような、売春・買春などの出会い系には持って来いのシステムである。
しかし、それ以外での出会いを生むことは無いように思われてならない。
インターネットが世界に繋がっているというのも大きな勘違いだ(特に日本語がメインの場合)。
それでも新聞社などのHPの信頼性が高いのは、紙媒体を発行する信頼できるニュースソースだと言うことがバックにあるからであり、ネットオンリーのニュースソースと一線を画する。
はずだったのだが、最近はどうにも違うらしい。
仕事仲間などを見渡すと、ネットの情報に対する認識力が著しく落ちているように感じる。
ウイキペディアなど実名を持たない個人が編集できる情報ソースを信頼してしまうのだ。信頼の仕方には色々あるのだが、例えば「アマゾンの書評」「カカクコムのレビュー」「インターネット辞書」「2ちゃんねるだとかの掲示板」「WEB2.0に代表される相互的なもの」これらはやろうと思えば操作可能なものなのだ。
実名を持って運営されているものでさえ間違いは起こる。
それなのに実名を持たないような物を信じるなんて・・・・実名を持つという事は、そこに責任者がハッキリと明示され、その発信元に対して確実にクレームを言い、それに対する説明を要求でき、それに真摯に応えるシステムが用意されている事を指す。
攻撃してくれと個人が身をさらしているからこそ信頼できるのだ。安全な位置から、好きな発言をしている人間を信頼できるわけが無い。
ネットリテラシー(情報リテラシー)をもう少し身に着けてほしい。
長くなったがネットの信頼だとか、リテラシーの問題を取り上げたのは、友人から最近教わったサイト「虚構新聞」がすごく面白くて紹介しようと思ったからである。
普通に読んで大笑いした。考えるに面白さの源泉がリアリティであり、ありそうでありえない、というキワどさの中にあると思ったからである。
ネットの嘘と本当というのは何なのかリアリティがリアルになってしまう事に対する問題。
虚構によって現実が生成される怖さが笑いの中に潜んでいる。

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2008年11月11日 (火)

頭が痛い

先日、珠洲という能登半島の先端にある、舟あそびという変わった名前のギャラリーのオープニング企画を見に行く。
山本基さんの新作をが見たかったのだ。
車を運転している途中、なんと桜が咲いていた。こんな寒い時期に桜が見られるとは思ってもいなく、きっと十月桜だね。と言いながら珠洲へのドライブを楽しんでいた。
そして山本さんの新作である。あぁ、なんてことだ。参りました山本さん。
そして帰ってきたのだけれども、どうにもこうにも風邪っぽいらしい。珠洲へ行く前に終わらせようと、締切をひとつクリアした安心もあるのだろう。
そんなわけで日曜美術館「金沢アートプラットホーム2008」の話や、内田樹「こんな日本で良かったね」の読後感想、「アートトップ」最終号に対する意見や思い。色々とネタはあるのだけれども頭が痛い。
そんなこと言ってる間に次の締切に迫ってこられる。
そんなわけで、またブログをサボりつつ、1日にまとめてぶち込む書き方になってしまった・・・。そのうち整理しよう。そのうちというのは年内だろうか?

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2008年11月 8日 (土)

横トリ2

横浜トリエンナーレの別会場、三渓園へ行ってきました。
本会上よりずっと面白かった。
アートは元々建築の一部であった。そして建築家から、施主から依頼されて作っていた。
それが建築からの独立を目指し、戦い、それが成功したとき、建築側へ大きな影響をも与えた。
アートとアーキテクチャが似ているのは兄弟だからだろう。
それが段々、サイトスペシフィックなんて言葉が使われて、もう一度「場所」主に建築に依存をし始めた。
当然、依然とは別の仕方で。
その一つが今回の庭園のような、現代アートに比べてずっと厚い歴史を持ったものとのコラボレーションであろう。
きっとこれからはこの様な(詳細は言葉にして伝えようと言うところまで固まっていないので、どのような?と言う質問はタブーである)アートイベントが主流にさえなるだろう事が予測される。
予測できるという事は、それは私の考えの一部。すなわち他者ではない。「想定の範囲内」と言う言葉をついつい言いたくなる。予言は外れて欲しい。そうでなければ益々孤独になってしまう。

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2008年11月 3日 (月)

理性の限界

高橋昌一郎著「理性の限界」を読む。
面白い。内容が面白いだけではなくて、読ませ方も面白い。
アロウの不可能性定理・ハイゼンベルクの不確定性原理・ゲーデルの不完全性定理。
これらに付け加えて、凄まじい数の天才の名前と理論が踊る。
それなのに解りやすい。
そしてファイヤアーベントの方法論的虚無なんか「キター!」としか表現できない思いを湧きおこさせる。
私としては全部一緒だと思ってたことが、きちんと整理されていて、読み進めるほどに感激する。
ここに作品はなんでもいいのだという、デュシャンのアートが加われば本当に私の言いたい事を全て言ってくれた!!と思うしかない。
近年において最大級の評価できる新書である。

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2008年11月 2日 (日)

マルセルブロイヤー

ブロイヤーのデザインは好きである。
実際、今もローテーブルとして使っている。
そんな私に無印良品からメールが届く。ブロイヤーデザインのデスク!
Thonet_panel_04

ガーン。カッコイイ。欲しい。質感はどうなんだろう・・・予約しちまうか・・・
東京では実物が見られるらしい。明日、上京して実物を見てこよう。

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