死刑には反対派です
10月になってしまいました。いよいよ月も二桁になると(特に原稿は年末のものにもなるし)年末へまっしぐらという気持ち。
さて昨夜の爆笑問題ニッポンに教養です。今をときめく大スター?姜尚中さんがゲストでした。
仰っていることはよく解るし、大田くんとも上手く噛みあってたし。良かった。
秋葉原の無差別殺人なんかを中心に話は進むのだけれども、あの事件と死刑の問題が私の頭ではどうしても繋がってくる。
私は基本的に死刑は廃止するべき、もしくは実質廃止するべきだと考えている。
ああいった殺人犯は自分だけ死ねよとか、悪い事した奴は死刑にしてしまえ。という考えは非常に浅はかだと思っている。彼らは社会的に抹殺される、社会的自殺をしているじゃないか。このことは姜さんも言っていた。
現実と繋がる事ができない苦しさ。そのときに「一人で勝手に死ね」というセリフ、セリフ自身というよりも、そういうセリフを言わせる発想自身が犯人を孤独に追いやった原因ではないか。
加害者もまた被害者だったんだ。なんて言う言い方は嫌いだが、被害者と加害者は簡単に反転してしまう。
解りやすい例を言えば、被害者が復讐者になると言えば解るだろうか。
死刑制度は罰を与えるとか復讐のためのものではない。それがないと被害者が救済されないなんていうならば、それこそ被害者が死んでいただきたい。
被害者は、例えば大切な人を奪われた人は、救われる事は無い。犯人の問題ではない。
死刑制度は犯罪の抑止の為にあるはずだ。それが社会と繋がっていない。どうせ自分の力では何もかえられはしない。そんな社会的に死んでいる訳でもないが、生きているという実感もない人が、それが進んで、社会から虐げられていると感じ始めれば社会的に殺された状況を選ぶか社会的に奴隷的に虐げられる状況を選ぶか、それはもうどちらでも良いと考えても不思議ではない。というか、惨めに生きていくならば、潔く死のうという考えの方が日本人的だとさえ思う。潔いと言うのは良い言葉だと思わない。
社会的に死んだ状況は、肉体的に死ぬより辛いのではないかと思う。それでも社会的な死を選ぶということは、自分の死など大して怖くないだろう。その人が無差別殺人など起こして、最も社会的に力があるとされるメディアに取り上げられ、社会に波紋を投げかけ、さらに上手く行けば国家によって死を与えられるというのは、社会的に虐げられている人にとっては、下手をすれば喜びとなるだろう。
すなわち死刑制度が本来発揮されなくてはいけない機能「犯罪抑止」に繋がらず、国家による殺人でしかありえない状況になってきていると言う事だ。「死」以上の刑が他にあるかと問われれば私は無いと思う。
それは私が正常の範疇の中の人間であり、社会的に虐げられていないから言えることで、それは彼岸においてはどうなのか。
番組の途中にも出てきたが、ニーチェの「怪物を退治するものは、自らも怪物にならぬよう気をつけなくてはいけない」という言葉。「一人で勝手に死ねば良い」は怪物と対峙したことのない最も正常で、優しく、正しく、安全な場所から、浅はかに考えて言葉を放つ人。それと向き合ったとき、それぞれの人はどうなるのか。
もしも本当に悪魔が居た場合、彼らの言葉どんなものだろうかと創造する事がある。「善い」と言う言葉自身を忌み嫌い私たちの「善い」という意味合いで「悪い」という言葉を使うのか、それとも彼らにとっての「善い」が、我々にとっての「善い」と逆転した使い方をするのか。
こんな単純な事でさえ、わからないとなると怪物を抑えるのは、やはり難しい。
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