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2008年3月

2008年3月31日 (月)

mottainai

「もったいない」が流行り言葉らしい。

実は私はこの言葉、そんなに好きではない。倹約のために「もったいない」というのは好きなのだが、環境問題となると、この言葉はむしろ悪とさえ言える。

少女売春を援助交際と言うことで軽く見せる。無職をフリーター/ニートと言うことで軽く見せる。まぁ軽く感じるかどうかは人それぞれとも思うが、この構造と似ている。

環境倫理っぽくなるが、資源が有限であるならば、現在の人が資源を使えば使った分だけ、未来の人が使える資源は減り、同じように現在の人が環境を破壊すれば破壊するだけ、未来の人は環境を破壊できない(環境負荷をかけることが許されない)事になる。

だから今は「もったいない」で済まされる問題も、100年、200年後の価値観で言えば重大犯罪の可能性がある。今は罰する法律がないので罪ではないと言うのはおかしいのだ。

だから未来の人に対する罪(場合によっては大量殺人)を「あなたのしている事は犯罪になるかもしれません」と言わなくてはいけない所を「もったいない」で終わらせる。これは「売春」を「交際」と呼び変えたのと同じ構造である。

2999年、歴史を学ぶ子供に先生は語る

「1900年から2100年までの200年間で人類は安定的な経済成長が無ければ混乱する資本主義思考を中心とする時代でした。安定的な経済成長が、人ひとりひとりの幸福や、地球環境よりも優先されたのです。ゆえに先にも後にも歴史上まれに見る環境大破壊の時代でした。その時代の人が無知であったが故に今のように植物は植物園、動物は動物園でしか見ることが出来なくなりました」

と言うような話も起こりうるのである。そうなれば今の政治家は環境犯罪を行ったA級犯罪者として扱われるだろう。

景気なんて波である。しかし環境の問題は修復不可能だ。

環境破壊の重みと、世界大恐慌の重み。どちらが重いのか全員がしっかりと考えて覚悟を決めるべきだと思うのだが、それにはまだ100年位かかるか。

「matterarenai!」

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2008年3月30日 (日)

話せば解る。絶対信じられない!

久しぶりに友人と食事。とっても頭にくる。

世界観・世界の広さは共通のものにできないのだと痛感。挙句の果ては私は精神病と言うことで決着した。

私の言う事が破綻しているのが理由らしい。

<ケース1>

私がしたいことがある。出来ればそれを仕事にしたい。しかし、それを仕事にして稼ぐのは難しそうだから期待は薄い。けれどライフワークとして続けてはいく。

それに対して友人は二択を迫る「それを仕事にする」のか「趣味で終わらせても良いのか」どってかと聞くのだ。それは矛盾するので両方選択するなんてオカシイと言う。

おかしいだろうか?手に入らない可能性が高いものは求めてはいけないと言うようだ。そもそも「したいけど、できない」なんてシーンは毎日の生活に溢れているだろう。矛盾を抱えるのが人間だろう。「ああすればこうなる」というロジックのみ・因果関係だけの人生なんて貧しすぎはしないか。

<ケース2>

目的は「社会をよくするため」であり、それは「私の自己満足」である。と言うことを言った。これも「社会のため」=「他人のため」、「私の自己満足」=「自分のため」であり

「他人のため」≠「自分のため」であるゆえ「社会のため」≠「私の自己満足」だと言うのだ。しかし自分のためだけに生きるなんていう詰らない人間が居るのだろうか。

社会のため、人類のためと言わなくても家族だとか大切な人のために生きるという側面はあるはずである。それは拡大すれば社会、人類へとなるはずである。自己実現のために、自己犠牲を問わず人類の為に何かをしなくては、居てもたってもいられない自分。

それは自分勝手な考えである。だから「社会のため」=「自己満足」になる事だってあるはずである。もっと言えば「社会のため」=「確信犯的悪事」と言う事だってあるはずだ。

一見矛盾するモノが始点は違うのに、結果的に一致するケースである。

こういった事ひとつひとつで話が進まない。結局は自分の理解を超えるものを受け止められないのだろう。もちろん私の中で競合する複数個の理論があり、未だ統合されていないので矛盾している部分はあるだろう。しかし世界最先端の科学の専門家の会議でだってA案とB案が対立(矛盾)し、かつどちらも真であると考えられるという事はある。それらは、そんな簡単には解決しない。解決を見るまでは矛盾する複数の案がそれぞれ真である可能性を持ちながら並行して存在したりするだろう。

ああぁ、もうどうでもいい。

矛盾を抱えられない男と、矛盾を抱えても平気な男。

どちらが豊かなのか。

と言いつつもブログで愚痴ってるようでは、豊かであってもモテない男か

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2008年3月26日 (水)

引越しだ

引越しをします。

しばらくオフライン生活です。しばらくは心置きなくブログをサボれます。

春からは石川県金沢市です。

引越しは何度しても慣れないものです。只ひたすらに邪魔臭い。

梱包材は使いません。全部タオルと洋服。なにせゴミを出すのが嫌いなのです。

ゴミはゴミだと言った瞬間からゴミになり、ゴミだと言わなければ永遠にゴミではない。

買うときにゴミになりそうなものは選ばない。徹底しているので本当にゴミ少ないです。

ゴミ捨ては月に3回くらいかな?環境破壊するのって、結構面倒なんですけどねぇ。

まぁ、徒然と書きましたが、引越しだって言う記録でしかありません。

春から新生活を送る皆様。一緒に頑張りましょう。

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2008年3月25日 (火)

無心時代

忙しい時代である。

お金を借りることに抵抗の少ない時代である。

他人の気持ちが解らない時代である。

自分の事に感心の高い時代である。

こんな事を解ったようにして偉そうに書いて、それを恥ずかしくも無くwebで発信する時代である。

学ぶことをより発信する事ばかりの時代である。あ、それは私か。

どこの諺か忘れてしまったが、この言葉を戒めにしなくてはいけない。

「賢者は知りたがり、愚者は教えたがる」

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2008年3月23日 (日)

世界は最初から僕だけのもの

ある大学の先生に、環境について自分の考えを話していたとき

「あなたの言っている環境は、今では誤解される危険が高いので環世界と言ったほうが良いかもしれませんよ」という一言からこの本の存在を知る。

ユクスキュルの『生物から見た世界』との出会いである。まさに自分の主張している内容がそこに書いてあった。

こういう事は多々あり「こんな風に思うんだ」と話をしていると「そーいう事は○○が××という本の中で言ってるよ」と指摘される。無知と恥を晒しながら、色々な先人と出会う。

この時に感じるのは、僕の環世界にはない本と見るのか、それとも死ぬまでに出会っている以上は、ネットワークも含めて自分の知覚だと見なして、僕の環世界にある本だと見れば良いのか。

自分の環世界は、厳密には誰とも一致をしない。だから私が見ることの出来る世界は、常に私だけのものである。

あぁ世界って俺のものだったんだ。と思ってみたりする。

そういう事が色々と回る。もっと言うと昨日の私と、今日の私も違うので感じることが違うし、極端な場合は環世界が変わったと言っても大げさじゃない気がする。

だから文章を書くというのは何をしているのかと言うと、そのときの自分との相談の記録か?そこに引っかかり始めると文章が書けなくなる。

今がまさにそんな状況。

Seibutu

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2008年3月19日 (水)

只今編集中

編集中の仕事がある。

この編集という仕事は定期的にやってくるのだが、その定期的にムラのある仕事だ。

このムラはどうしようもならない。なんだか寿命を縮めているような気分だ。

そんなわけで風邪をひいた。先日よりのくしゃみは止まった。花粉症ではなく風邪だったのか、それとも鼻が詰まって花粉が止まっているのか。

という訳で日記を書く元気はないわ。

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2008年3月17日 (月)

なんのためにかくのか

なんのためにかくのか

仕事だから?

自分で決めたから?

誰かに頼まれたから?

どれも正解である

しかし全部「本当」ではない

本当は誰かに思いを受け止めて欲しい

まだ見もせぬ誰かなのか

既に知っている誰かなのか

なんとさみしい男なのか

流れの中に自らを一体化させられず

我にとらわれる情けなさ

静けさが残酷な夜もある

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2008年3月16日 (日)

Mr.sato you too!

体調不良のため、今日は読書デーとなりました。私は「積ん読(つんどく)派」の人間なので本棚にある未読の一群から、その日の気分でチョイスする。

その中で佐藤雅彦氏の「毎月新聞」を読んでいて「あなたもそう思っていましたか!」と仲間を見つけた喜びを感じた。以下抜粋

「なんとか反グローバリゼーションをテロとかの形ではなく、しかも、情緒に訴えるのでもなく、正しく行う方法はないのだろうか。こう言う間にも均質化の波は世界中津々浦々にまで押し寄せている。」

その感動の次の瞬間、あぁこうやって忘れてしまうんだとも思った。

私は私が興味のある事柄や、考え方に大きく共感する。

こうやって本を読んでいても、自分が共感できるところは強い印象によって記憶されるが、それ以外の部分は記憶しきれず、零れ落ちていく。

皆さんはテープ起しをした事があるだろうか?私は大人になって初めてテープ起こしをしたとき大いに驚いた。

え?こんなこと言ってた??

というような聴いた記憶の無い言葉があるのだ。

テープ起しをするのは大概がインタビューの内容である。だから相当に真剣に聞いていたし、気が緩んでいる瞬間など無い。それでも覚えていないのだ。

それは、自分にとって「これだ!」という言葉をキャッチしたとき、どちらかと言えば自分にとって興味の薄い(内容の重さとは別)ものは記憶しきれないと言うことなのだ。

そうやって思考が一周したところで佐藤氏の著書をもう一度見る。

先ほど「あなたもそう思っていましたか!」と感じたものも、自分にとって重なっていると思った部分だけを見て喜んで、その前後は重なってなければ、僕の「そう思っている」と佐藤氏の「そう思っている」は全く同じである訳がないと冷めてしまう。

だから孤独で、寂しいから、それを忘れようと何かに没頭しようとするのだと思う。

その没頭が一人の趣味であれば問題がないのだが、しばしばそれを団体で行おうとする。価値観を一つにする。

宗教、サッカー、市民団体の活動、エコ、オリンピック、民主主義と資本主義、流行・・・

価値観を一つにする。それを言い換えるとグローバリゼーションだったり、均質化なのではないか。

私のブログがメジャーにならないでいるのは悪いことではない。

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2008年3月15日 (土)

なぜ客観的になれないのか

悪いことをしようとする人を止めるのよりも、正しいことをしようとする人を止めるほうが難しいように思う。

悪いことをしようとしている人は「悪い」ということを自覚している。それでも、なさねばならぬというのは、その理由を解決するか、代替手段を提示してあげれば済むはずである。

では正しいことをしようとしている人を止めるには、どうすれば良いのか?

正しいのであれば止めなくても良いと思われるかもしれないが、例えば「街の活性化」をする場合に街の活性化は「正しい」として誰の反対も寄せ付けない原理主義的側面を持っている。しかし、そこまでは正しくても、その内容が市の税金を使った場合、1つの街の為に使っても良いのか?という問題が出てくる。さらに、それは既に民間で行われている場合は民業圧迫となる。

全方位的に「正しい」と言えることが本当に世の中に存在するのか私は疑っている。

だから正しいと言う言葉を目にした、耳にした、その瞬間に私の中の警報機が鳴り響く。

彼の正しいは、誰かの正しいと対立する。誰かの進める街づくりは、他の誰かにとっては住みにくい街づくりになる。その時に私はどうすれば良いのか。

正義の団体が溢れる街。それと戦おうとする私もまた自らの正義を信じる。

第二次大戦後、最も出兵している回数の多い国は、あの正義の国である。

正義の鉄槌は、本当は正義に対してくらわしてやりたい。

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2008年3月13日 (木)

マイブーム

保育所2年+小学校6年+中学3年+高校2年=13年

何かと言うと、私の書道歴である。しかしやらなくなってから10年以上・・・

最近その思いが蘇って来ている。書道家をテレビで見て、書道漫画「とめはねっ!」を読み、目をつけている書道家の個展に足を運んだり。

言葉の不自由さ、脆弱さ、暴力性、危険性、そして楽しさ。

それと表裏一体の存在である文字なのだが、書になったとき、また新しい側面を見せる。

モノクロの世界が全てを表している豊かさ。デザイナーよ、まず書を学んでくれ。

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2008年3月12日 (水)

ふぇッくしょん!

今朝から、くしゃみが止まらない。

花粉症である。よく言われる事ではあるが、人工林に杉を沢山植えたからこうなったとか、都市はアスファルトで覆われ、以前は花粉を吸着していた土の地面が少なくなったからだとか、諸説あるし、どれも完全な間違いではないと思うが、私たちには、どうしようも無い現状である。

江戸時代は禿山だったところに植林をして杉の森が出来た。そんな場所は調べると沢山ある。それが花粉症の原因を作っている。

屋上緑化や壁面緑化が建築の寿命を縮めたり、虫の害の原因となることも知られてきた。他にもビオトープから異臭がするとか、ボウフラが大量発生したとかというのも聞いたことがある。公園や街路樹が死角を作り、そこで犯罪や交通事故を生んでいるというのも聞いたことがある。

「自然を増やす」=「良い事」という図式が無いだろうか。どんなに小さくても自然であり、生命であるから人の思い通りにならない。危険や問題が見えていない。

「脳化社会」ではそういった思い通りにならない事を受け容れる人間のゆとり・おおらかさは足りないというか、無くなりつつある。

コントロールしきれないものは排除する

そんなので良いのだろうか。経済理論から言えば「食の安全」や精密機械や衣類といった「製品への異物の混入防止」のために必要な事は理解できる。

それでも感じる、そんなので良いのだろうか。

それが子供や要介護者を殺す保護者を生むのではないだろうか。

自然災害と呼ばないまでも、大雨、強風、雪に極端に弱い社会を作ったのではないか。

スーパーやお店で購入した商品を無条件に信頼する消費者を作っているのではないか。

自然を相手にしたことの無いエリートが農業政策を考えている怖さ。

コンビニエンスストアの無い国へは旅行もしたがらない大学生。

携帯電話の使えない状況に耐えられない高校生。

問題ないじゃないかと言われれば、問題ない。

それでも浮かんでくる思い

そんなので良いのだろうか。

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2008年3月10日 (月)

似ているのか

ブログはネットに接続できないとアップできない(携帯電話からもできるかもしれないが、私はPCからオンリーである)。

日記の感覚で書いていると、抜ける日があると何となく「駄目」「罪悪感」がある。ダイエットの途中に焼肉に誘われた日のような、毎晩続けていた筋トレを酔って忘れたような・・・

別に何も悪いことなどしていない。むしろ、ほとんど毎日継続しているという事実の方が偉いのに。継続は力なりである、全てのプロフェッショナルは、毎日それをやり続けることができるかという事を問われている。

色々な方から話を伺ったり、インタビューを見たり、読んだりしていて共通するのは、やはり「継続」だと思う。ドーンと凄いアイディアや技術があっても、それは瞬間である。

最近流行の「アートで町おこし」。あちこちでビエンナーレが多発している。

しかし、そういったもので盛り上がるのは、その期間だけであり、その一時の盛り上がりという長期スパンで考える集客のムラによって町に負担をかける。そして、それがアートの裾野を広げるかというと疑問が多い。

一時に集中して植林をして、後の管理をしない山はどうなるか。

年に一回だけ集中トレーニングでダイエットをするとどうなるか。

年に一回だけ合宿して勉強して受験に勝つことが出来るだろうか。

書道でも、金属加工でも、演劇でも、落語でも、美容技術でも、野球でも、数学でも、家事でも・・・・なんでも、短期集中で本当に身(実)になるのか。

こんな自然な事が何故わからないのだろうと思う。

いや解っていないのは私なんだろう。ビエンナーレやアートフェア、アートイベントの目的はアートを盛り上げるためではなく、アートの皮を被った別物なのに、アートだと思っている自分が愚かなんだ。

継続が大切と言いながらも、どんなに簡単な事でも毎日継続するのは難しい。そういってブログが抜ける日があっても仕方ないと自分を慰める。その「自分を慰める」事だけは欠かさず継続している気がする。

うーむ

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2008年3月 6日 (木)

君はバナナを見たか!?

上出惠悟氏の作品を見た。

雑誌などで色々と取り上げられているので、ご存知の方も多いでしょう。

ああいう作品を見ると思う事は「アートは言語を超える」と言うことである。

ビジュアルの持つインパクトは、やはり強力である。

それでも何故書くのかと聞かれると、作れないからであるからなのだが、それでも「文化」と言うからには「文に変化」させて初めて文化なんだと信じて、非言語であるアートを言語に変換する。少なくとも「上出惠悟」や「九谷焼のバナナ」と言語にしなければ検索することは出来ない。インターネットはビジュアルより言語の世界だとしみじみ思う。

だから紙媒体が無くなっても、ライターの仕事は減らないと信じる。

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2008年3月 5日 (水)

違和感

スーパーで見かけました。

「カルシウム入り牛乳」

アメリカでは無脂肪乳などがあるが、カルシウムの入ってない牛乳もあるのか?

これだけ自由に成分を調整しているのに遺伝子組み換えは拒否するというのは、どうなのだろう?遺伝子組み換えよりも成分調整の方が抵抗が無い根拠は?

カルシウム無し牛乳をご存知の方、ご一報下さい。

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2008年3月 4日 (火)

中谷宇吉郎に感動

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ちょっと用事があって石川県に行きました。

そのついでに、気になっていた中谷宇吉郎雪の科学館に出かけた。

建築は水戸芸術館などで有名な磯崎新。

でもまぁ建築は主役ではない。展示の素晴らしさと実験に大いに感動した。子供の頃に見ていたら科学者を志したのではないか(選ばなかった可能性は、選ばなかった故に今も可能性であり続けるのだが)と思う楽しさだった。唯一のマイナスはティールームが禁煙ではなくタバコ臭かったことだろうか。

雪や氷の研究成果の素晴らしさと、その研究材料自身が美しいことの相乗効果で本当に良かった。そう思えるという事は建築家が建築家のエゴを出さず、かつ展示の見難い場所も無いように計算されていたと言うことである。

建築が主役の美術館、記念館が多い中で「展示」が主で「建築」が従になっている建築だった。中谷博士が偉いのは言うまでもない。しかし磯崎さんの設計も素晴らしい。

往復の車中から見える真っ白な白山が神々しく、本ブログでは珍しく絶賛尽くしの加賀旅行でした。

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2008年3月 3日 (月)

ブログはタダの日記ではない

ブログが日記と圧倒的に違うところ。

それは他人のアクセスがあるところ。

と当たり前の事を書いても仕方ないのだが、アクセス解析が出来るのは面白い。

先ほどチェックしたところ「環境偽装で意外な影響?」「デスノート」の両日が同点トップであった。なんでだろうかと考えると「環境偽装~」では城山三郎氏のお名前が載っており、「デスノート」はそのタイトルに導かれて来たのではないかと思われる。

結局ネットの世界は情報の量が多すぎて、公開していても誰も気付かない。有名人の名前や映画、漫画の名前などでファン同士が繋がる程度である。だから私はアブナイ発言をしても特に問題にならないと考えている(最近はちょっと過敏すぎる)。

結局は検索エンジンに導かれて動くのだけれども、当然検索した言葉を中心に動く。それは自分の興味の在るところへ導かれると言う事であり、その興味の内容がバレている他社が広告や紹介でさらに導いていく。それは予測されたルートに近く、じつは偶然ではなく誰かの意図の下で動いているように感じて仕方が無い。

ネットの世界は自分で選んだつもりでコントロールされる恐ろしい世界だ。

「偶然の出会いの無い世界」

安全と見るか、危険と見るか。

さて城山三郎、デスノートと両方記載された本日のブログは、やっぱり人気が出るのか。

そこに更に「村上春樹と村上龍だと、どっちが好き?」とか「プロのテクニック教えます」「あさって美人女子大生がふたりで話を聞きに来る(ホントに来る)」なんて書いてあるとアクセスは伸びるんだろうな。

でも、お目当てに当たらず結局は読まない。となるとブログはタダの日記かもしれない。

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2008年3月 2日 (日)

アーティストは労働者か

アートに飽きた。

飽きる、飽きないといっている間は個人の事だったのだが、美術家である川俣正さんが新聞に以下のようにコメントしていた。『住民参加や地域活性化の名の下に、アートが町おこしの手段として安易に消費される風潮にうんざりした(中略)今や全国に散らばるアート・プロジェクトの中には、手軽なイベントも少なくない。制度や権威を飛び出したはずが、もう一度別の制度や権威に組み込まれようとしている。』(2008.2.23日本経済新聞)

アートイベントのプロデュースをしているような方が言ってしまうのだから驚いた。私はアートの業界の人間ではない。だからアーティストという人はこうあって欲しいという一方的な願望を持っているのだろう。ステレオタイプ過ぎると思われるかもしれないが、孤高で自由、独立独歩でストイックに生き抜いて欲しい。しかし現実にはプロデュースやプロモーションにばかり力の入ったアーティストやイベントが多い。最近はその臭いに過敏になっているのか、見に行こうという気分になれない。アートはお金にならなくて大変だというがアーティストだけが大変なわけではない。厳しいようだが、私は元来アート好きだから期待を捨てられないのだ。

アートまでイベントにして消費するな。

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